運命の、ちょっと前 2
香ばしいパンの香りが通りにふわっと広がった。
「わぁ……美味しそう……!」
フィオナは思わず足を止め、ショーケースの中をのぞき込む。
バターがたっぷり乗った焼きたてのクロワッサン、チーズの香りがたまらない惣菜パン。
どれもお城の食堂では見かけないような、素朴で温かみのあるパンたち。
「すみません、その焼き立てパン、ひとつくださいな!」
声も自然に弾んでいた。ウィッグと眼鏡で顔は隠せても、この楽しそうな声までは隠しきれない。
――だからなのか、すぐに見つかってしまった。
「……フィオナ?」
ぴたり、と空気が凍る。背中に、聞き慣れた声。
「って、やっぱりそうだ! フィオナじゃん! なにしてんの!?」
フィオナはびくっと肩を震わせて振り返る。そこには、買い物袋をぶら下げたカイルが立っていた。訓練着姿のまま、やや非難のこもった鋭い目でこちらを見つめている。
「え、ええっと……あの、その……誰?」
「いやいやいや、誰?じゃないでしょ! 何、その変装!? ウィッグ? メガネ? バレバレだって!」
「……あ〜〜、やっぱりダメだったかぁ」
観念したように、フィオナはメガネを外して、困ったように笑った。
「こっそり出てきちゃった。……一人で歩いてみたかったんだ」
その一言に、カイルの表情が一瞬だけ曇る。そして――少し強い声で言った。
「……危ないだろ! 自分がどれだけ魅力的なのか、ちゃんと考えてほしい」
フィオナはきょとんと目を丸くし、すぐに頬を赤く染めた。
「み、魅力的って……なに、それ……」
「そりゃ言うでしょ! 女神みたいな光魔法使えて、顔も可愛くて、優しくて……そんな子が一人で街歩いてたら、そりゃ誰だって声かけるって!」
「女神って……ちょっと盛りすぎじゃない? しかも優しさなんて初対面じゃ絶対分からない!」
「俺はわかるし! 他のやつに分かってほしくないし!」
あまりにも即答するから、フィオナは思わず噴き出す。
「……ごめんね。でも、ありがとう。見つかったのがカイルで良かった」
その言葉に、今度はカイルが赤くなる番だった。
「まったく……心臓に悪いよ。見つけたのが俺だったからよかったものの」
カイルはぶつぶつ文句を言いながらも、足取りは妙に軽い。フィオナのすぐ隣を歩くその横顔は、口ほどには怒っていないどころか、ちょっと嬉しそうだった。
「はいはい、これから気をつけます」
フィオナも笑いながら答える。怒られてるのに、なんだか心が軽いのは、きっとカイルと一緒にいるから。彼の傍では、いつも感じる重圧から解放されて、心からの笑顔がこぼれる。一人で来るはずだった今日の小さな冒険が、カイルがいることで何倍も特別なものに変わっていく。
「……1人で来たかったけど、カイルと一緒も楽しいなって思えてきた」
ぽつりとこぼした言葉に、カイルがピタリと足を止める。
「……今の、もう一回言って」
「えっ? え、な、なんで?」
「いや、ほら……その……いいからもう一回!」
「……カイルと一緒も楽しい、です」
「……よし」
何が「よし」なのだろうか。
通りには屋台が立ち並び、アクセサリーや小物の露店、甘いお菓子の香り、色とりどりの雑貨たちが並んでいる。ふたりは並んで歩きながら、あちこちの店を覗いて回った。
「これ、カイルに似合いそう!」
「え、俺に? え、似合う? うそ、マジ? ……じゃあ、フィオナにも似合いそうなやつ、探そっか」
からかわれて照れたり、食べ歩きしながら笑ったり。ほんの数時間の出来事なのに、どこか特別な時間のように感じられた。
フィオナが立ち止まったのは、小さな手作り雑貨の店。木でできた動物型のキーホルダーや、リボンのついたミニポーチが並ぶ中、ひとつだけ、お揃いの刺繍入りブレスレットが目にとまる。
「これ……可愛い」
「お揃いにしよっか」
カイルがすっと言ったその言葉に、フィオナは一瞬驚いて、すぐに小さく笑った。
「うん。しよう」
そんなたったひとつの小物が、きっと今日という日を忘れられないものにしてくれる。
そしてそのとき――カイルの中にふと芽生えた感情。
(……今日みたいに、ずっと隣にいられたらいいのに)
胸の奥で、じわりと広がる独占欲。けれどまだそれに名前はつけられなくて、彼はただ静かにフィオナを見つめていた。
♢♢♢
エルディア邸へ続く坂道を、ふたり並んで歩く。
昼間のにぎわいはすっかり落ち着き、道ゆく人の姿もまばらだった。
「楽しかったなぁ……」
フィオナがそうつぶやくと、カイルは「だろ?」と得意げに笑った。
けれどその笑顔は、すぐに少し真剣なものへと変わる。
「……なあ、フィオナ」
「ん?」
「次にどっか行くときは――最初から俺を誘ってよ」
フィオナは少し驚いたように目を瞬かせた。そして、カイルの顔をまっすぐ見て、小さく笑う。
「うん。約束する」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥があたたかくなる。
「それにしても……これ、ジュリアンに見られたらやきもち焼かれちゃうかな?」
フィオナが手首につけたブレスレットを見ながら、いたずらっぽく笑う。
「……あー、それは……あるかもな」
「やっぱり? ……どうしよう、怒られたら」
「そのときは俺が謝るから大丈夫。……いや、違うな。堂々としてればいいんだよ、やきもち焼かせとけ」
その言い方があまりに自信満々で、フィオナは思わず吹き出した。
「ふふっ……なんか、それ、ちょっとかっこいいかも」
「マジで!? 今の、ちゃんと覚えといて!」
ふたりで笑い合って、その笑い声が春風に溶けていった。
門の前に立つと、フィオナはカイルに向き直る。
「今日は本当にありがとう。カイルと一緒だったから、もっと楽しかった」
「うん。俺も、すげー楽しかった」
もうちょっとだけ一緒にいたい、と思ったのは、きっとお互い様だった。
「じゃあ、またね」
「またな」
フィオナがエルディア邸の裏門をくぐったその瞬間。 カイルの手が、思わず伸びかけて――そして、そっと握りしめられた。
(次は……最初から、俺だけを誘って)
心の中でそう呟いたカイルの視線の先で、フィオナが最後に振り返って笑った。 それは、誰にも見せたことのない――とびきり嬉しそうな笑顔だった。
カイルはその場にひとり残り、深く息を吐く。
「……よし。さーて、団長の剣と副団長の胸当て……。今何時だ?……大幅オーバーだなぁ」
頭を軽くかきながら、にやりと笑う。
「さぁて、怒られに戻るぞー」
そう言って、彼は坂道を軽やかに駆け下りていった。