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運命の、ちょっと前 1


仮の婚約から、もう3年が経った。


10歳だった少女は13歳になり、背も少し伸びて、鏡に映る姿はほんのり"大人びて"きた気がする。王妃教育は相変わらず厳しいけれど、礼儀作法も言葉づかいも、ぎこちなくなくなってきた。たどたどしく笑っていた"公爵令嬢の顔"も、今ではすっかり板についた――――けれど、その内側にある好奇心や自由への憧れは、まだ消えていない。


「……よし。変装、完了っと」


プラチナブロンドの髪は、今は落ち着いた茶色のウィッグで隠されている。眼鏡をかけ、いつもより幼く見える地味な装い。小さな巾着と地図、折りたたんだ布袋、そして、かわいくて一目惚れした銀細工の小物。準備は万端。


サファイアブルーの瞳も、眼鏡をかければ少し雰囲気が変わる。


鏡の中の自分を見つめていると、なんだかくすぐったい気分になる。


(看護学生だったころって、こんなことしなかったな)


そんなふうに、前の世界での感覚がふとよみがえることもある。


(……元・悪役令嬢って設定のはずなのにね)


中身が"わたし"だからか、悪役令嬢の迫力なんて出るはずもない。絶世の美少女、って外見のはずなんだけどな。いざ自分で見ると、"ちょっと目立つ美少女"くらいに見えるのが不思議だ。


そう思ったら少し笑えてきて、変装した自分にウィンクをひとつ。


「自由って、こんな気分なのかな」


学生だった頃、街での買い物なんて当たり前だった。けれど今は、それが"夢"みたいに感じるなんて、ちょっと不思議だ。


「今日は思いっきり楽しむぞ!」


フィオナは軽く頬を叩いて気合を入れた。


ふと机に並べられた道具たち――地図、財布、布袋――に目を落とし、指先で巾着の紐を締め直す。巾着には小さな銀貨が数枚と銅貨のみ。以前、侍女に「街に出るなら、あまりお金を持ち歩かない方が良いんです」と忠告してもらったのを思い出す。


「……今度は、自分の足で歩いて、自分で選んでみたいんだ」


思い出すのは、一年前の春。社会勉強の名目で、侍女と護衛に囲まれて初めて訪れた城下町。にぎやかな露店、鼻をくすぐるパンの香り、薬草店で出会った不思議な笑顔の店主――。


すべてが楽しかった。でも、あのときの私は"誰かの後ろ"を歩いていただけだった。


だから今日は、自分だけの一歩を踏み出す日。自分だけの"冒険"をする日。一度でいいから、ただの女の子として町を歩いてみたかった。その願いが叶うのは、きっと今しかない。


「ばれませんように……!」


ウィッグをぎゅっと押さえ、そっと部屋を抜け出す。事前に侍女たちには「図書室で勉強しているから、夕方まで誰も入れないで」と伝えてある。いつも真面目に勉強する令嬢の言葉なら、疑われることもないはず。


人目を避けるように壁伝いに進み、使用人の少ない時間帯を狙って裏庭へ。庭園の茂みに隠れながら、屋敷の裏門を目指す。誰にも見つからなければいいのだけど…。初夏の風が、心地よく頬を撫でた。


「……いってきます、わたし」


そう小さくつぶやいて、フィオナは城の敷地を抜け出した。もし父さまに知られたら、きっと大目玉だ。でも、今はそんなことより、未知の冒険が待っている喜びで胸がいっぱいだった。


♢♢♢


城下町の中心通りは、昼下がりの賑わいに包まれていた。焼き菓子の香り、鍛冶屋の金属音、行き交う人々の話し声――何度訪れても飽きないこの雑多な空気が、カイルはけっこう好きだった。街を吹き抜ける風の流れや、人々の息遣いに自然と意識が向くのは、彼の中に流れる"風の力"のせいかもしれない。


「っと……鍛冶屋で団長の剣、それから副団長の胸当て……あと道具屋でオイルだったか」


手元のメモを見ながら、小さくうなずく。今日は騎士団の買い出し兼"装備の引き取り"任務。朝の訓練が終わった後、父である騎士団長に呼び出されて「カイル、鍛冶屋に行ってこれを取ってこい」と言われたのだ。


「団員じゃないのに、こういう雑用だけはちゃっかり一人前扱いなんだよな……」


と呟きながらも、少し前まで木剣すらまともに振れなかった自分が、こうして任される側になったことが、ちょっとだけ誇らしく感じる。騎士団長の息子という立場より、一人の騎士として認められたい――そんな思いが日に日に強くなっていた。


「ちゃんと終わらせて、さっさと戻んねーとな……父さんの機嫌が悪くなる前に」


そう呟いて顔を上げた、そのときだった。


――茶色い髪。丸眼鏡。小柄な背に、巾着を大事そうに抱えている少女。薬草店の前で、色とりどりのハーブの束を一つ手に取り、うっとり香りを嗅いでいる。


(……ん?)


なぜか、目が離せなかった。風の魔法によって鋭くなった感覚が、あの少女の存在を際立たせる。


すれ違いざまにちらっと見えた横顔。たったそれだけなのに、心臓が不意にドクンと跳ねた。あの仕草、微笑み方、指先の動かし方。どこか既視感がある。


(あれ……フィオナ……?)


一度は通り過ぎかけた足が、勝手に方向を変える。立ち止まり方。ちょっと上を見上げる仕草。歩くリズム。


(んなわけ……ある。絶対ある!あれ、フィオナじゃん!)


カイルにとって、フィオナは誰よりも守りたい存在だった。初めて出会った日から、その想いは変わらない。騎士としての道を選んだのも、彼女のそばに立ちたいという願いからだった。


(危ないって……まったく、なんで一人で出てきてるんだよ)


そう思ったときには、もう身体が動いていた。使命感と、どこかうれしさの入り混じった気持ちが、不思議と背中を押していた。


剣と胸当ての引き取りは、ひとまず後回し。買い物袋を片手に、カイルは雑踏の中をすり抜けていく。気づかれないように、けれど目は逸らさずに。まるで、逃げた光をもう一度この手で捕まえたくて。風の魔法で空気の流れを探るのは、すでに彼の日常に溶け込んでいた。


口では「危ないからやめろ」って絶対に怒るつもりだけど、心のどこかでは、ほんの少し嬉しい自分がいる。この5年、彼女は"公爵令嬢"としてどんどん遠い存在になっていたから。今日は、少しだけ昔に戻れた気がして——そんな時間を、手放したくなかった。


(見つけられて、よかった)


そんな思いを胸に、カイルはそっと距離を詰めた。彼女が立ち止まったパン屋の前、ほんの数メートル後ろで、彼もまた足を止める。


「すみません、その焼き立てパン、ひとつくださいな」


彼女の声が、人混みの中に柔らかく響いた。カイルは人混みの中でもすぐにその声を聞き分けることができた。


(やっぱり、フィオナだ……)


初夏の陽射しが彼女の茶色いウィッグを金色に輝かせ、風がそっと彼女のスカートの裾を揺らした。カイルは一歩踏み出し、そして立ち止まった。彼女の小さな背中を見つめながら、いつか守れる強さを手に入れると、もう一度心に誓う。


「フィオナ」


彼の声が届いたのか、少女の肩がわずかに揺れた。

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