女子の社交は、予想以上に笑えない 6
王城・応接室。
春の陽射しが柔らかく差し込む室内には、静けさと緊張がわずかに漂っていた。
クラリーチェ王妃は茶器を手に取り、ゆるやかに香りを味わうと、視線をアマーリエ・エルディア公爵夫人に向けた。
「最近のアレクシス、少し疲れているように見えるの。お茶会のあとは、令嬢方の熱心な視線に疲弊していたみたいで」
アマーリエが肩をすくめて笑う。
「ええ、顔が引きつっていましたね。でも、フィオナやジュリアンたちと話している時は、とても楽しそうでした。殿下らしいです」
「まったく、昔から真面目すぎるところが変わらないわね」
クラリーチェも穏やかに微笑んだ。
「……こうして四人だけで話すのも久しぶり。懐かしいわ」
「本当に。王宮ではつい気を張ってしまうけれど、今日は心が緩みます」
アマーリエが茶器を置きながら言った。
その空気を切るように、ガイウス王が口を開いた。
「……さて。そろそろ考える時期かもしれんな。光の娘が王家に嫁ぐのは、この国では自然な流れだ」
「ガイウス、まだその話をするには早すぎるわ」
クラリーチェがやや呆れたように言う。
「そうです。フィオナもアレクシスも、まだ十歳ですよ」
アマーリエが真剣な目で言葉を重ねた。
レオナルド・エルディア公爵が腕を組み、少し思案するように呟く。
「……とはいえ、王妃という立場が娘の未来に繋がるのなら、それも選択肢の一つではある」
「でも、その未来が本人の望まぬものなら意味がないわ」
アマーリエは静かに、しかしはっきりと否定した。
ガイウスが小さく息をつく。
「政略がすべてだった時代は終わりつつあるか……」
「私たちも、最初はただの学友だったのよ」
クラリーチェが金縁の茶器に浮かぶ琥珀色の紅茶に視線を落とし、思い出すように微笑む。
「でも、気づけば自然と隣にいる未来を思い描くようになっていた。だから結婚を選んだの」
そのとき、扉を叩く音がした。
「お話し中、失礼します。少し、お時間をいただけますか」
現れたのはアレクシスとフィオナ。
ガイウスが目を細めた。
「どうした?」
「……私たち、仮の婚約をすることにしました」
アレクシスの言葉に、室内の空気が凍る。
「……は?」
誰かの声が小さく漏れた。
「ち、違います! 正式な婚約じゃなくて、形式だけなんです! あくまで事情があって……!」
フィオナが慌てて補足する。顔は真っ赤だった。
「事情とは?」
ガイウスの声が低く響く。
「お茶会のあと、令嬢方からの注目が強すぎて……。正直に言えば、息苦しさを感じていました。フィオナにお願いして、婚約という形でその注目をそらしてもらおうかと」
アレクシスは静かに答え、そして付け加えた。
「私は将来、この国を守るべき立場です。今からそのための準備を始めなければなりません。恋愛騒動に時間を取られている余裕はないのです」
レオナルドの眉がわずかに動く。
「軽率に聞こえますな。仮とはいえ婚約です。一度王太子の婚約者という立場になれば、フィオナの評判も将来も左右される。殿下には、そのような影響まで考慮いただきたく存じます」
クラリーチェが静かに尋ねる。
「フィオナ、あなたも"いい"と言ったのね?」
「え、ええ……まあ、その場の勢いというか……」
俯きながら答えるフィオナの声は小さい。
アマーリエが穏やかに娘を見つめた。
「……フィオナらしいわね」
クラリーチェは紅茶を口に含み、ふと遠くを見るような目で言った。
「あなたたちの"仮"が本物になるかどうかは分かりません。でも、周囲は必ず誤解するでしょう」
アレクシスはクラリーチェをまっすぐに見て言う。
「今はお互いにまだ道の途中です。好きな人ができるかもしれないし、自分の夢が変わるかもしれない。だからこそ、いつでも解消できる"仮婚約"という形を選びました」
レオナルドが厳しい声を向ける。
「これは殿下にとっては都合のよい話かもしれませんが、フィオナの立場を考えれば話は別です。万が一、娘の名誉に傷がついた場合、どのようにお守りいただけるのでしょうか」
その言葉に続くように、ガイウスも重く言った。
「……レオナルドの言う通りだ。軽い気持ちで交わすには重すぎる約束だぞ、アレクシス」
「仮とはいえ、王太子の婚約者として扱われることになる。……フィオナ、おまえはその覚悟があるか?」
突然の現実に、フィオナがビクッと肩を震わせた。
アマーリエが一歩前に出て、柔らかな口調ながらも決意を秘めた声で言う。
「陛下、クラリーチェ。フィオナはまだ幼いのです。彼女の薬草への想いも、どうか尊重していただけませんか。彼女らしさを守る時間も必要かと思うのです」
クラリーチェは微笑を浮かべたまま、静かに厳しさを含んだ瞳で答えた。
「理解できますわ、アマーリエ。ですが、立場というものがあります。婚約者として注目される以上、立ち居振る舞いを問われるのは避けられないのです。形だけとはいえ、王太子妃としての教育は必須ですわ。そうでなければ、周囲を欺くことはできませんよ」
「具体的には、どのようなことを?」
アマーリエが尋ねる。
「宮廷作法、礼儀、王国の歴史、外交術、そして王家の伝統儀式…毎日少なくとも数時間は必要になるでしょうね」
「え……薬草を学ぶ時間……減るってこと?」
フィオナは思わず小さく呟いた。顔から血の気が引いていく。
「毎朝の観察ノートも……週末の乾燥作業も……」
ぐるぐると頭の中をめぐる現実に、フィオナの笑顔は引きつっていく。
そんな彼女の隣で、アレクシスが真剣な眼差しを向ける。
「……私は今回の件で、フィオナに甘え、迷惑をかけていることを自覚しています。そして、それが私自身の弱さから来るものであることも理解しています。それでも、彼女の立場をできる限り守ることを、ここにお約束します。どうか、この仮婚約をお認めください」
ガイウスが苦笑を漏らした。
「婚約解消の際に政の場が騒がねばよいがな」
そのやり取りを見届けたクラリーチェは、ふとフィオナの薬草への思いとアレクシスの視線の先にある未来の違いを感じ取り、小さくため息をつく。
(この二人、結婚はなさそうね。フィオナの目は薬草を見つめ、アレクシスの目は遠い王国の未来を見ている……)