女子の社交は、予想以上に笑えない 5
昼下がりの王城。書庫の外にある小さなテラスには、心地よい風が吹いていた。
柔らかな日差しが差し込むなか、フィオナは分厚い薬草図鑑を開き、真剣な表情でメモを取っていた。テーブルには、彼女がまとめたノートと数冊の本が整然と並べられている。
静寂を破るように、控えめな足音が近づいた。
「こんにちは、アレクシス。こんなところでどうしたの?」
「……いや、少し話があって」
彼は視線を泳がせながら、フィオナの向かいの椅子に腰を下ろす。
「なにか悩みごと? 顔がこわばってるよ?」
「そんなにわかりやすいか……?」
小さく苦笑して、アレクシスは頬をかいた。
しばらく沈黙が流れる。フィオナはペンを置き、彼に向き直る。
アレクシスは、小さく息を吐いた。視線の先には、ただ風に揺れる薬草の葉がある。
出会ってからもう二年。最初は光魔法を持つ少女という希少性だけが関心の中心だった。
けれど今では、アレクシスにとってフィオナは、女の子というより仲間だった。
なんでも話せて、気を使わずにいられて、黙っていても落ち着く存在。
そんなかけがえのない存在に、恋心はなかった。
むしろ、そういう距離感だからこそ、心が休まるのだと思っていた。
「……フィオナ。君と話していると、気が楽になる。周囲に気を張らずに済む相手なんて、君くらいだからな」
「……え、それってどういう意味?」
「悪く取らないでほしい。ただ……フィオナは、宮廷の中で唯一、肩肘張らずに話せる相手なんだ。そういう存在がどれだけ貴重か、君には想像がつかないかもしれない」
言い終えてから、「あ、失言だったか?」とでも言いたげな顔で彼は黙り込む。
フィオナは一瞬ぽかんとして、それからふっと笑った。
「ふーん。アレクシスにとって、私は楽な男友達なのね」
「違う!そういう意味じゃない……フィオナは特別なんだ。ただ、それをどう伝えたらいいか、うまく言葉にできなかっただけだ」
顔を赤くしながらも恥ずかしさをごまかすように、そっぽを向く彼に、フィオナは思わず吹き出す。
「もう、どっちなの? いつもは偉そうなのに、急に照れたりして。アレクシスって本当に分かりづらいんだから!」
笑い合う空気の中で、アレクシスが少しだけ真剣な表情になる。
「……実は、お願いがあるんだ」
「お願い?」
「フィオナ、君に頼みたいことがある。俺に近づいてくる女の子たちから守ってほしい。君と俺が婚約していることにすれば、多少は抑えられるかもしれない」
「…………え?」
フィオナの思考が一瞬止まる。
「本当の婚約じゃなくていい。ただのふりでいい。みんながそう思いこんでくれれば、それでいいんだ」
アレクシスは少し緊張した表情で、でも王子らしく堂々と息を吐いた。
「最近ベアトリスとか……他にもいろんな貴族の娘たちが俺を囲んできて、正直うんざりしている。王太子だからって近づいてくる人たちと話すのは、面倒でしょうがない」
「そうなんだ……大変だね」
「でも、フィオナと一緒にいる時はまるで違う。だから思った。もし君が婚約者ということになれば、すべて丸く収まるんじゃないかって」
冗談のような真剣な提案に、フィオナは目を瞬かせる。
「ちょっと待って!婚約って……そんな理由で決めるものじゃないでしょ?」
「わかってる。でも、フィオナじゃなきゃダメなんだ。フィオナなら、こんな俺の我がままでも笑って聞いてくれると思ったから」
アレクシスはふっと視線を落とす。
「……もちろん、フィオナが誰かを好きになったら、すぐに解消する。君に迷惑はかけたくない」
「アレクシス……」
「俺も、本当に好きな女の子ができたら、ちゃんと言う。だから、それまでは……手伝ってくれないか」
フィオナはしばらく黙ったまま彼を見つめた。
心の奥がざわつく。これはまずいと、頭ではわかっている。ゲームの中では、フィオナが王太子と婚約したルートは、どれも破滅に繋がっていた。アレクシスと婚約したフィオナに、幸せな結末は訪れなかった。
――でも。
この二年間で、アレクシスのことを少しずつ知ってしまった。
不器用で、俺様で、でも本当はまっすぐで。誰よりも王族としての責任に縛られていて、それでも人を突き放せない優しさを持っている。
そんな彼が、自分を頼ってくれたことが、少し――ほんの少しだけ嬉しかった。
「……うん。わかった」
「えっ」
「女子っぽくないって言われたしね。少しの間なら小さな王子様の守り役くらいなら、やってあげてもいいかな」
アレクシスは一瞬だけむっとした表情を浮かべたが、すぐにその頬が緩み、ほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう、フィオナ。さすが俺の友達だな」
「少しの間だからね!……じゃあ、そのうち守り役の仕事について、ちゃんと説明して? 婚約者さま?」
「ははっ!……やっぱりフィオナは変わってるな。でも、そういうところが、一番助かってる」
その言葉には、こらえきれないほどの喜びが滲み出ていた。
春の風がふたりの間をやわらかく撫でていく。
その空気には、どこか不思議な共犯の気配が漂っていた。