転生記憶を持つ悪役令嬢、目覚める 1
「お嬢様、お目覚めですか?」
耳に届いた柔らかな声。まぶたを開けると、見知らぬ天蓋付きのベッドと、こちらを覗き込む少女の顔があった。
「今日はお誕生日ですね。おめでとうございます、フィオナ様」
フィオナ・エルディア——8歳。エルディア公爵家の長女。
その名を呼ばれた瞬間、頭の中に"もう一つの記憶"が洪水のように押し寄せてきた。
白い天井、点滴、看護実習の記録。突然の胸の痛み。そして崩れ落ちる体。
背筋が冷たくなった。心臓がバクバクとうるさいほど鳴っていて、汗ばむ手が小刻みに震える。
——けれどそれは夢なんかじゃない!私、本当に死んじゃったんだ!
「フィオナ様?どうかなさいましたか?」
メイドの心配そうな声で我に返る。
「……大丈夫よ。ただ、ちょっと変な夢を見ただけ」
確かに覚えている。看護学生として臨床実習に追われた日々と、患者さんの笑顔に救われた時間。
短いながらも、本気で人と向き合ってきた前世の記憶。
そして同時に、フィオナとしての8年間の記憶も、鮮やかに残っていた。
「ちょっとだけ一人になりたいの。少し考え事が…」
「かしこまりました。お支度の時間になりましたらお呼びいたしましょうか?」
「ありがとう。支度の時間になったら教えてね」
メイドは小さく会釈して退室した。前世の記憶では自分で着替えるのが当たり前だったけれど、この身体の記憶によれば、複雑なドレスや髪型は常にメイドの手を借りているようだ。貴族令嬢として当然のことなのだろう。
カーテンを開けると、朝の光が差し込む。その光の中、私は深く息を吐いた。
「……まさか、乙女ゲームの世界に転生するなんて」
ため息混じりに呟く。前世では、これは単なるスマホゲームだった。現実になるなんて、誰が想像できただろう。
前世で夢中になっていたスマホゲーム、『魔法と恋と運命の糸〜君と結ぶ魔法の絆〜』(通称:まほこい)
攻略対象は王子や貴族たち。魔法属性が運命を左右する華やかな世界。
そして——その中で、必ず破滅する悪役令嬢の名前が。
「フィオナ・エルディア……」
鏡に映る少女の姿は、プラチナブロンドの髪と澄んだ青い瞳を持つ絶世の美少女。その容姿も、名前も、フィオナそのものだった。
ゲームの中のフィオナは傲慢で冷酷、主人公フェリシアを徹底的にいじめるだけでなく、嫌がらせや陰謀に次ぐ陰謀と悪行の限りを尽くし、最終的には婚約破棄・国外追放・そして最悪の場合には魔法犯罪者として公開処刑——という破滅ルートが待っている。
しかも彼女の転落により、名門エルディア家も急速に没落し、弟のジュリアンは家名を背負って孤独な闘いを強いられ、両親は失意のうちに晩年を過ごす……。
「…………そんな未来、絶対イヤだ。何があっても避けてみせる」
前世の知識があるんだから、運命くらい……変えられる!
たぶん!……きっと!……うん、多分!
ダメならダメで、また考えればいい。今はまず第一歩!
家族を、弟を、そして自分自身を守るために。
その時、廊下から足音が聞こえた。
「あ、姉さま。おはようございます」
茶色の髪に青い瞳。整った顔立ちの少年が微笑む。
「ジュリ!」
思わず口から出た愛称に、彼は眉をひそめた。
「姉さま、人前でその呼び方はやめてくださいって何度言えば。……ジュリアンです」
照れながらも優しい目を向けてくれる彼。ゲームの中で冷たい視線を向けていた弟とはまるで違う。
「ごめんってば、ジュリ。でも二人きりの時はいいじゃない?」
彼は小さくため息をつきながらも、口元には笑みがあった。
「お誕生日おめでとうございます、姉さま」
「ありがと、ジュリ……アン」
彼の笑顔は純粋で、温かい。ゲームでは姉のわがままに振り回され、女性嫌いになっていくはずの弟。そして姉の没落後は重圧に苦しむはずの弟。だが現実は違う。
『まほこい』に登場するジュリアン・エルディアは、主人公フェリシアの攻略対象の一人。土属性の魔法を操る、礼儀正しく優秀な青年だ。
幼少期に姉フィオナに振り回された経験から女性全般に苦手意識を持ち、当初は主人公にも心を閉ざしていた。
だが、フェリシアの献身的な想いに触れるうち、彼は少しずつ心を開き、やがて揺るぎない信頼関係を築いていく。
それでも、彼のルートに流れるのは、どこまでも切ない旋律。
姉の没落や家名の重圧に苦しみながらも、誇り高き公爵家の跡取りとして懸命に生きる姿は、多くのプレイヤーの心を打った。
……そんな彼が、いま、目の前で微笑んでいる。
無邪気で、あたたかく、姉想いの――現実のジュリアンとして。
「姉さま、今日のパーティの準備は順調ですか?」
「あらジュリ、今日はあなたもお祝いされる日じゃない?双子なんだから」
言葉が出た瞬間、「しまった」と思った。心臓が一拍飛んだ気がする。前世からの記憶と現在の記憶が混ざって、つい間違えてしまった。まだ慣れていない。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、ジュリアンの表情を窺う。でも、フィオナの記憶では、毎年同じ会話をしているようだ。
ジュリアンは小さく苦笑して首を振った。
「……本当の誕生日は明日ですけど、毎年こうして一緒にお祝いするのが恒例ですからね」
そうだった。私とジュリアンは双子でありながら、誕生日が違うという珍しい姉弟だ。フィオナの記憶によれば、私が生まれた夜、ちょうど城の大時計が12回鐘を鳴らし始めた瞬間、母のお産はまだ続いていた。医師も「もう少しですよ」と励ましていたという。そして新しい日付に変わったわずか数分後、ジュリアンは産声を上げた。同じ双子なのに違う誕生日——医師たちも「こんな偶然は初めてだ」と驚いたという、エルディア家にまつわる有名な逸話だった。
「そうだったっけ……でも、毎年一緒にお祝いしてるから、つい勘違いしちゃうんだよね」
「姉さま、毎年言ってます、それ」
「ふふ……ごめんね、ジュリ。いつも通りだね、私」
「またですか...」彼は軽く頭を抱えたが、すぐに笑顔に戻った。
「そうですね。変わらない姉さまで安心します」
彼の言葉に、ふっと肩の力が抜けた。
……うん、どうやらフィオナってちょっと抜けてるタイプらしい。毎年こんな会話してるって記憶があるし。
なら大丈夫、多少ヘンなこと言っても「いつものこと」で済む……はず!
二人で食堂へ向かう途中、私は何気なく尋ねた。
「ジュリアン、あなたの魔法属性って、もう分かってるの?」
「まだです、姉さま。魔法って、たいてい10歳くらいになってからじゃないですか」
「そうだったね……」
ゲームの設定では、ジュリアンは土属性。父と同じ、守りに優れた安定の魔法だ。
けれど、今の私たちには、ゲームとは違う未来があるかもしれない。
食堂では、両親が待っていた。
「おはよう、フィオナ、ジュリアン」
優しくほほ笑む母アマーリエ。厳格な父レオナルドも、微かに目を細めた。
「誕生日おめでとう、フィオナ」
「ありがとうございます、お父様」
私の決意は、ただ一つ。——この温かな家族の未来を、守ること。
「今日の夜のパーティには王都でも名のある方々がいらっしゃるから華やかになりそうだわ」
母の言葉に、胸が高鳴る。
——ヴァレンハイト家に、ルクレール家、それからアーディン家……。攻略対象たちの家だよね?来るのかな。
胸の奥が少し締め付けられる感覚がある。期待よりも不安が押し寄せてくる。この身体に宿った記憶が、彼らとの敵対関係を警告しているようだ。ゲームの中で彼らと敵対していた私。その彼らと、これから顔を合わせるのだ。
「フィオナの魔法属性も、そろそろ現れる頃だな」
「ええ。属性が何であっても、あなたは私たちの大切な娘よ」
父と母の言葉に、胸が熱くなった。
「ジュリ……ジュリアン、あなたの魔法属性も土になるのかな?」
「可能性は高いですね。でも、姉さまがどんな属性でも、僕は姉さまが大好きですから」
——この世界で、私は悪役令嬢。
けれど、だからこそ。
「ありがとう、ジュリ。私もあなたが大好きだよ」
「も、もう……姉さま、人前でジュリはやめてくださいって」
真っ赤になった彼の頬と、困ったように口ごもる様子に、食卓に温かな笑いが広がった。父は「まったく」と言いながらも口元を緩め、母は優しく微笑んでいる。
私は知らなかった。この日の夜、私の中に"光の力"が目覚めることを。そして運命が、静かに動き出していたことを——。
——この世界に転生した意味。それは、きっとこれから明らかになる。
♢♢♢
空が夕暮れに染まる頃、エルディア公爵邸は華やかな光に包まれていた。
大広間には王都の貴族たちが次々と姿を現し、祝福の言葉を交わす声と優雅な音楽が空間を満たしていく。キラキラと輝くシャンデリアの下、色とりどりのドレスが舞い、グラスが触れ合う音が響く。
私は自室の窓辺に立ち、庭に到着する馬車を眺めていた。次々と現れる華やかな馬車から降りる貴族たちの姿に、胸の高鳴りを抑えきれない。
特に目を引いたのは、伯爵家の紋章をあしらった深緑の馬車。ヴァレンハイト家の馬車だ。その後ろには侯爵家であるルクレール家とアーディン家の馬車も続いている——。
これから会うのは、ゲームの中で主人公と恋に落ちていくはずの攻略対象たち。宰相子息ユリウス・ヴァレンハイト、魔法師団長子息シルヴァン・ルクレール、そして騎士団長子息カイル・アーディン……。
この身体の記憶を探っても、彼らとはほとんど交流がないようだ。父が政治的な理由で招いた家柄ではあるが、子どもたちが実際に顔を合わせるのは今回が初めて。ゲームでは彼らと深く関わっていくことになるけれど、現実の私たちはまだ何の接点もない。白紙の関係——それは、悪役令嬢にならないチャンスでもある。
「まずは、ゲームとは違う印象を与えることから始めないと」
鏡に映る自分の姿を見つめる。8歳の姿だとはいえ、整った顔立ちに美しいプラチナブロンドの髪。このまま成長すれば、ゲームの中の高慢な美少女、フィオナ・エルディアになるはずだ。
でも、まだ間に合う——そう思った瞬間、胸が熱くなる。今なら、すべてを変えられる。まだ何も始まっていない。まだ誰も傷ついていない。これから出会う彼らと、どんな関係を築くかは、私次第。すべての運命を書き換えられるはず。
「フィオナ様、準備が整いました」
扉の向こうからメイドの声がかかる。
「ありがとう。すぐに行くね」
私は小さく頷いて立ち上がった。
ドレスの裾を整え、背筋を伸ばす。
破滅の運命を知る悪役令嬢としての記憶を持ったまま、私は今日という一歩を踏み出す。
大切な人たちの未来を変えるために——。