二十六 この手にある幸せ【挿絵あり】
朝の帳が下りきらぬうちから、私はいつものように雑事を片づける。灰を運び、水瓶を満たし、帳場から呼ばれれば静かに応じる。動作はもはや習い性となり、自然と手が動く。
私は、正式に登録された奴隷となった。今、私の首にはなにもなく、けれどその代わりに左耳たぶには突き錐による穴がある。これは生涯を自ら主人に捧げた証で、これにより私が解放される可能性はなくなった。
それと同時に私は、断種の処置をも受けた。迷いはなかった。潔白でありたい私にとって、それは必要なことだったのだ。
この数カ月で、ずいぶんと私の状況は変わった。けれど、なにも変わらない生活が続く。
「……ラウリ。遅れた、ごめん。私もやる」
寝ぼけ眼でやって来たのは、私と同じ黒髪に、翠の瞳の青年。いつぞやから行方が知れなくなっていた、タイヴァスに居たカリだ。
彼は、私が訪ねてシピに関する質問状を託した後、かつての私のようにタイヴァスから放逐されていた。市民権まで剥奪されたわけではなかったが、市井を知らぬ状態でひとりにされ、ひどく混乱したという。彼にとって幸いとなったのは、まだ神の足の役を離れてから数年という、人々の記憶に強くその存在を残している時期であったことだ。手を差し伸べる人は多くいたのだろう。苦労も多くあったに違いないが、それでも五体満足でこうして再会を果たせた。これは、よろこぶべきことだ。
カリは、先日私を訪ねてシニサラマンの商隊のひとつに接触をした。彼の色味と容姿はいくらか私に似ていて、多くの者が彼を私の息子だと勘違いしたようだ。その中にはウルスラとヤルノである娘ファンニもいて、あの少女は今、カリに執心中だ。カリは「妹ができたみたいだ」と笑っていた。
彼は、奴隷ではない。正式にシニサラマンの職員として雇われ、今は私が成して来た仕事を覚えるため、ラウタニエミに逗留する私の元へ来た。おそらく、ファンニの婿として目されているのだろう。それは良いことのように私には思えた。
「……ラウリ。尋ねたいことがあるのだけれど」
炊事場にあるすべての瓶いっぱいに水を運び終えた後、カリはどこかためらいがちに述べた。彼がずっと物問いた気な表情でいることを、私は気づいていた。
「なに?」
「――自由を、手放したのは、なぜなのだろうか。いつか、そうなることだって、あり得たんでしょう」
多くの場合、奴隷は七の倍数の年の分だけ主人に仕える。そしてその後、解放されるのが習わしだ。けれど、私はその権利を放棄し、命の限りウルスラに仕えることを、自ら突き錐を刺すことにより示した。
私は、笑った。そして、答える。
「それが、私に示せる彼女への誠意だったから。私には、私の身しかないのだ」
カリは、私の目をじっと見た。私の瞳よりも、より新緑の色に近い彼の目は、意味を理解しかねるとでも言いたげに、好奇心できらめいていた。でも、それ以上は踏み込まずに「そうなのか」と彼は納得した風を装う。
次は、帳簿の確認。私が長くラウタニエミに居ることで、南の地方全域の情報は、ラウタニエミへ集められるようになった。これは、常に移動し続けるシニサラマン商会のあり方としては異例だろう。しかしよく機能しており、多くの隊員たちからやり取りが簡便になり楽だとの声が上がっている。
これから、変わって行くのかもしれない。組織も、人も。
日が高くなるころ、廊下を渡る足音がふたつ重なった。こちらに向かってくるその音に私は顔を上げる。ウルスラとヤルノが、並んでやって来た。カリも気づき、私に倣って椅子から立ち上がった。
かつては、同じ場所に居ても違う方向を見ていた二人だ。今も談笑しているわけではない。だが、口を閉ざしながらも歩幅を合わせる姿には、私たちが与り知れぬ絆のようなものが見え隠れする。
ヤルノがちらとこちらを見る。険のある目だが、以前のような敵意だけではない。
「ラウリ」
ウルスラの声に、私は膝を折る。
「明日の会合で、文書を写してもらう。準備しておけ」
「承知いたしました」
ただそれだけ。冷ややかで変わらぬ調子だ。けれど、彼女が視線を逸らす一瞬に、わずかな逡巡の影が差す。
自分は変わらぬままだ。奴隷として、ここに在る。
だが、彼らは少しずつ変わっている。互いに、向き合おうとしている。
「カリー! お仕事やめて、こっちに来て!」
そう叫んで部屋に飛び込んで来たのはファンニ。カリに背後から抱きつき、引っ張って連れて行こうとする。その目はもう、私をちらりとも見ない。安堵とともに笑ってしまう。
「ファンニ! だめだって言っただろう! 私は仕事を覚えなければならないの、遊べないよ!」
「子ども扱いしないで!」
「子どもじゃないか。お仕事の大切さがわからない人は、みんな子どもだよ!」
「いじわる!」
そう言い捨てると、ファンニは風のように走り去って行った。彼女はこの一カ月ばかり、両親と同じ隊に同行し過ごしている。そのゆえか、よく笑うようになったし、子どもらしい言動が増えた。それは、良いことだ、と私は思う。
状況が変われば、人は変わる。まして、愛を求めていた子どもならば、なおのこと。
昼餉の時間にさしかかるころ、郵便が大量に届いた。それらの仕分けも私とカリの仕事だ。これまでは、手紙類はどこかの隊に預けられ、いつか本人に届けられるという運用がされていた。しかし今はシニサラマンの隊員宛のものは、すべて一度ラウタニエミに集められる。そしてそれぞれの隊へ届けられるのだ。なので、ずっと効率が良くなった。
「ラウリ。あなた宛の手紙だ」
カリが私へと手渡したそれは、タイヴァンキのものではない印が押されていた。確かに宛名はラウリ・スレヴィ・ケシュキタロという私の名で、差出人はアノ・ニコデムス・アハティアラ。まるで見たことも聞いたこともない名前だった。カリが興味津々の瞳で私の手元を見ている。
封を切る瞬間の音が、廊下の気配をすべて吸い込むようだった。文字を目で追うと、次第に胸の奥にじわりと温かい気持ちが満ち、私は息を詰めた。カリが「なに、なにが書いてあるの?」ともどかしげに言う。
「…………シピの子は、男の子だったそうだ」
手紙に目を走らせたまま私が言うと、カリは悲鳴とも歓声とも取れぬ声をあげた。
無事に、着いたのだ。シピは、オネルヴァの元に、帰れたのだ。
私は、その事実が、ただうれしい。
「……なんか、幸せそうな顔してる。ラウリ」
言われて、私は目線を上げてカリを見た。彼はどこか不思議そうな表情をしていた。そうか、と私は思う。カリには、理解できないのかもしれない。
「――幸せだよ。なによりも、だれよりも。私は、この手紙の内容だけで、生涯幸せでいられるんだ」
そう述べると、カリは「なにそれ、私にも読ませてよ」と手を出した。私は「だめだよ、これは私への手紙なんだから」と笑ってかわした。
「なんだよー、いいじゃないか、ちょっとくらい。けちだなあ、ラウリは!」
「私はなにも持たない者なんだよ。私宛の手紙くらい、独り占めしてもいいじゃないか」
カリはふてくされたように「そうだけどさー」と言った。私は笑った。
私にはひとつの夢がある。それは私の娘と、私の義理の息子が、自分たちの子を抱いてほほ笑み合うことだ。どこかここではないところで、幸せに暮らし、やがて子どもたちに見守られ、穏やかに死んでいくことだ。
なにも持たないこの手にある幸せは、だれにも奪えない私だけのものだ。目を閉じれば見える。シピ、オネルヴァ。そして、二人に似た子。もう二度と、私たちは会うこともないだろう。
私は、自らが歩んできた足跡を振り返り見た。たどり難いものだった。それでも、ここに立てたのであれば、それでいい。
「いいよーだ。今度私に手紙が来たら、見せてあげないんだから」
「いいよ。そのときはファンニに頼んで、こっそり読んでもらう」
「なんだよ、それー」
ずるいじゃないか、とカリは抗議した。私は笑って、昼餉に行こうと言って部屋を出た。
挿絵:ゆきや紺子さん
描写不足等、いろいろ悔いはありますが、悔いはありません(?)
『この手にある幸せ』
これで完結です!!!!
ありがとうございました!!!!!




