二十四 子
夜明けの光は、まだ街の屋根の影を濃く縁取っていた。通りは冷え、朝靄の湿気が肺の奥に沈む。
シピは粗末な旅装に身を包み、肩には擦り切れた袋をひとつだけ背負っていた。ほんの数日の滞在だったはずが、時の感覚は妙に長く、けれど振り返れば、語られた言葉は指の間から零れ落ちていく砂のように思い出せない。記憶に残っているのは声の調子と、炉辺で笑ったときのわずかな皺だけだ。
別れは言葉を選べば選ぶほど空虚になる。だから私は何も言わなかった。代わりに視線を落とし、彼の足許の土の色を見つめていた。
シピはしばらく黙ったまま立っていたが、やがてかすかな笑みを浮かべ、ささやくように言った。
「……ここから先は、ひとりで」
私は、どうにか彼を慰留できないかと努めた。彼が向かう隣国には私の娘のオネルヴァがおり、そして今は母になっているのだから、祝福して送り出すのが当然だ。それなのに。私は秘密を分け合うような調子でつぶやく。
「せめて、ヴィエノに会っては行かないか。ラウタニエミに住んでいるのだ。そろそろ目を覚ますだろうし、おまえが居ると聞けば飛んで来るだろう」
薄い笑みのまま、シピはうつむいた。そして「いや、やめておこう」と言う。
「ヴィエノたちには、私は、死んだと。そう伝えてほしい」
その声は決意というよりも、静かな諦めに近かった。シピは手を一度だけ胸に当て、小さくうなずいた。それが合図のように思えた。彼は背を向け、足を運ぶ。靴底の乾いた音が遠ざかるごとに、胸の奥の何かが少しずつ削がれていく。
追うことも、呼び止めることもできなかった。立ち尽くす自分の影だけが長く伸び、冷えた朝の光に淡く溶けていった。
やがてシピの姿は街の暗がりの向こうに消えた。そこに残ったのは、湿った石畳の匂いと、やけに騒がしい胸の鼓動だけだった。
私は振り返り、冷えた朝気に頬を晒して煉瓦造りの家々の並ぶ道を背に歩き出した。足音がやけに高く響く。胸の中に残るのは、別れの痛みではなく、静かにすり減った余白だった。これで終わりだ。そう思いながらも、どこかで彼が再び扉を叩く音を聞くかもしれない、という不確かな期待が拭えない。だが、それはもう叶わぬ幻影だ。
私たちは、これで永遠の別れなのだ。あっけなく、物悲しい。
シニサラマンの館の門には、ウルスラが立っていた。門柱にもたれた彼女の肩はいつになく細く、指先には灰の跡が残っていた。笑いかけるでもなく、ただこちらを眺める目に、以前とは違う深い影が落ちていた。私は一礼し、中に入る。
言葉はなかった。それからしばらくの間、彼女からの声掛けもなかった。なので夜に呼ばれたとき、私の部屋のどこを探してもいつも服用していた丸薬がみつからないことについて、疑うこともなかったのだ。引き出しを開けると、薬の箱は空だ。紙の香りだけが残り、私の指先がその空虚を探った。
「ねえ、はやく来てよ」
「すまない、避妊薬を切らしてしまったらしい。取り寄せるので明日にしてくれ」
「じゃあいいよ、あんたの部屋でしよう」
彼女は執拗で、なにかの観念に囚われているように私へまたがった。シピはこのような気持ちだったのだろうか、とふと思う。私は長い夜を耐えなければならなかった。そして。
「――ああ、それはあんたに渡すなって言われているんだ」
「なんだって?」
丸薬を取り寄せようと、館の物流を司る者に声をかけたときだ。眉根を寄せて言われた言葉に、私は思わず問い返す。
「いや、ないと困る。どうしたのだ、製薬になにか問題が?」
「まさか。供給はふんだんにあるさ。でもこの拠点には在庫していないし、あんたには絶対に渡すなとも言われている」
「なぜ」
「そんなの言うまでもなくわかりきっているだろう。あんたの子を孕む気なのさ、長は」
ぞわり、と腕の毛が逆立つように感じた。
私は踵を返し、すぐにウルスラの元へ向かった。部屋で書き物をしていた彼女は、私の顔を静かな視線で見つめた。私は言葉を選べずに言う。
「――私は、あなたと子を成すつもりはない」
「そうかい」
「あなただって、子はひとりでいいと言っていた。だから最初の時から避妊をしていたのではないか」
「そうかもね」
「それを、いまさら。なぜだ」
ウルスラは筆記具を音もなく置き、椅子をわずかに引いた。顔を上げた彼女の瞳は冷たく澄みきり、私を透かして遠いものを見ているようだった。その視線の奥には、私でありながら決して私ではない者が住みついている気がした。沈黙が重く積もり、やがて彼女は口を開いた。
「気が、変わったんだよ。そういうこと、あるだろ、人間ってさ」
「私は、変わらない。私はあなたとも、だれとも、子を成すつもりはない。私の子はオネルヴァひとりだ」
「いいよ。それで。できた子は、ヤルノの子と言えばいい」
「正気か、あなたは」
私は思わず語気を荒げてしまった。なにを言うのだろう。そんなことが許されるわけもない。
ウルスラは、かすかに息を吸い込むようにして、口を開いた。
「……あたしは、あんたを囲ったときから、ずっと怯えている」
抑えた声だった。淡々と響きながらも、どこか刃こぼれした刀のように、用いれば自らをも傷つけかねない不安定さを含んでいた。
「だれかに奪われるのではないか、いつかあたしの掌から零れ落ちてどこかへ行っちまうんじゃないかって」
それは、本心の言葉だろうと私は思った。だからこそ、私に首輪を嵌め、執拗に探し、所有物のように人前で見せびらかして来たのだ。ゆっくりとした独白へ、私はじっと耳を傾けた。
「……あんたを縛り付けていれば安心できると思った。あんたはあたしのもんだって、みんなに知らしめれば、胸の震えは静まると。でも違うんだね。握り締めるほど、あんたは遠くに行く。あたしの影だけを撫でて、心はどこかへ行ってしまう」
私は、首を振った。理解できそうで、理解できなかった。なぜ彼女がここまで、自分に執着するのか。
彼女へ向ける私の感情には、同情すらない。私は冷たい人間だろうか? そうかもしれない。
「……あんたがここに居ることだけで、わたしは生きていられる。けれど同時に、ここに居るあんたがあたしのものではないことを、突きつけられているんだ」
沈黙が落ちた。
彼女の言葉のひとつひとつが、氷柱のように胸の奥へ降り積もっていく。彼女が吐露したのは、激情でも愛情でもなく、ただ削られ続ける恐怖の形。
「そのために、子を?」
「あんた、シピを我が子と思ってるって言ってただろ? なら――本当に自分の子がいたら、どこにも行かないだろ」
「馬鹿げている、茶番だ!」
私は吐き捨てた。目の前の女性の考え方が、穢らわしいと思った。そして、その慈悲にすがって生きるしかない自分のことも。
私は額に手を当て、理解できない彼女の言い分をどうにか説得する言葉を探す。けれどなにかよいものはなくて、結局常日頃から考えていることを述べるに留まった。
「あなたの夫は、ヤルノだ。あなたには、もう立派な家庭がある。私が異物なのだ。あなたの生活に、私は必要のないものだ」
「違う! あんたこそがあたしのものだ、あんただけがあたしの生きる目的だった!」
「あなたを愛しているのはヤルノだ! 私ではない!」
叩きつけた言葉を受けて、ウルスラは身震いした。なにかを言おうとしてなにも言わず、彼女は立ち上がって、その場を後にした。




