二十三 穢れ
また遅れてすみません!
腕の中のシピは思いのほか痩せ、少しだけ背を丸めて立っていた。まだ歩みのぎこちなさが残るものの、彼の瞳ははっきりとこちらを見ていた。
「滞在を、許された。何日か……ここに居る」
言葉少なにそれだけ言う。どんな気まぐれか、ウルスラはシピが私の元に留まることを許してくれたらしい。驚きつつも私はそれを歓迎した。ウルスラは姿を見せなかったが、館内にいるであろうことは察せられた。それに、私がどこかへ行かないように常の見張りが何度も廊下を行き来する。仕事部屋へシピを招じ入れた私は、逸る気持ちで茶を沸かす。思えば、こんなことすら彼とは初めてなのだ。
いろいろなことを話した。これまでどうしていたかを。
故郷の土地へ送られたシピは、鉱山管理者の述べた通り両親の元へ秘密裡に預けられたらしい。元々、シピはタイヴァスを出奔したときに病で死んだと伝えられていたようだ。そこへ満身創痍で死にかけているその息子が運ばれて来て、驚喜したという。
命の別状がないところまで四カ月をそこで過ごし、今、ここへ。両親には泣いて慰留されたと少し笑いながらシピは言う。しかし、彼の身分でそれはできない。公式には死んでいる者が、このタイヴァンキの中に留まるのは危険過ぎる。
「妹がいた。話には聞いていたけれど、初めて会った。父と母のことは、彼女に任せて、出てきた」
タイヴァスでは、年ごとの面会に訪れることができるのは二人だけだった。ゆえにずっと両親がやって来ていたのだろう。シピは「兄さんと呼ばれるのは、こそばゆいね」と薄く笑う。
それに、オネルヴァのこと。
囚人として鉱山で会ったとき、子があるのだとシピは示した。オネルヴァが身重のときにタイヴァンキへ戻り、シピ自身さえもその手に抱いていない子が。何事もなければ、今ごろ三歳を越えるころだと。私は、彼が隣国へ母子を残して去らざるを得なかった経緯も、訥々と語った。それが、最善であったのだと。
夕の食卓に並ぶ料理の前に、ふたりで並んで腰掛けた。会話は少なく、食器の触れ合う音ばかりが響く。シピは、片手だけで器用に食事をした。
「味が濃いな」
シピがぽつりと言い、私は「ここでは、そうだ」とだけ答えた。沈黙は、不快ではなく、むしろ互いの呼吸が同じ空間にあることを確かめるようだった。
灯火が弱まるころ、シピは床に座り、壁にもたれて言った。
「オネルヴァのことを……あの別れの日のことを、ずっと考えていた」
シピは視線を伏せ、膝の上で拳を握った。
「私が戻らなければならなかった理由も、きっと理解してはいないだろう」
その声は低く、押し殺すような熱を帯びていた。
人々が寝静まった後も、ずっとふたりで語らった。火を落として、同じ寝床で横になりながら。暗闇はいくらか私たちの心を素直にさせる。私も、問われるままに語った。ウルスラのこと。その内縁の夫。娘のファンニが取った行動。私は今に至るまで枷となる首輪で従属していること。シピは涙声で「ラウリ、父上、ごめん」と謝る。私はその、袖のなくなってしまった腕にそっと触れ、小声で「私こそ、ごめん」と述べた。
「私は、私のできなかったことを成し遂げた、おまえが幸せになってくれればいいと思う」
「なに? ラウリができなかったこと?」
「私は、気づいていた。タイヴァスの欺瞞も、姫神子のまやかしも。御輿を担いながら、ずっと」
だれも疑問に思わず存在するそれら。私は不思議だった。けれど、自分からなにかを変えようとも思わず、そうする意欲もなかった。
「私は、五と呼ばれていた。胤となり、器の儀に加わることも、愚かだと思いつつなにもしなかった。けれど」
暗い虚空を見つめながら私は述べる。シピの視線を感じる。目の前にあのときの光景が思い浮かぶ。
「私の代の一は、少々気の荒い男だった。私などはいつも目の敵にされていたよ。シピ、器の儀の手順は覚えているか?」
「もちろん。何度も教わった。陶冶、それに器の準備。香油に、薫香」
「そう。どうやら、私のときの一は、その手順を正しく行わなかったらしい」
焚きしめられる香は、胤の男たちの気分の高揚だけでなく、器たる姫神子を夢にいざなうためのものでもあったのだ。元来気性が激しく、細かなことに気をやらない男であった一は、おそらく香の分量を正しくしなかった。
「危険が生じる可能性もあった。周囲がそれに気づいたのが、あまりに遅かった。私が儀に臨む直前は、息ができないくらいの薫香で。少しだけ外の空気を入れたのだ。なので、私は平気だった」
私が器の儀の部屋に入ったとき、そこにあったのは器ではなかった。
凌辱され尽くしたひとりの女性だ。
「……かわいそうに、思って。きっと……私の母もこうだったのだろうと」
養父母を看取った、穏やかな期間。私がどのように生まれたのか、耳打ちして来る者はひとりではなかった。はっきりとその内容を聞いたのはそのときではあったとしても、私はおぼろげながら理解していた。幼少期、私はキヴィキュラという小さな村の中で「手籠めっ子」と呼ばれていたのだ。
私は、器たる娘を介抱した。こぼれた胤を拭い、そこにある物でできる限り身を清めてやった。気を取り戻した娘はすすり泣いた。そして、私に言った。
「胤を、ちょうだい、と。……彼女はそう言った。自分の身に起きたことを、彼女は理解していた。その上で私の目を見て、あなたの胤が欲しい、と」
去り際に、互いに名を交わした。一でもなく、姫神子でもなく。
そして……私の心は彼女を住まわせた。
シピは、なにも言わなかった。ただじっと私を見ていた。そちらを向くと暗闇の中で目が合い、感情の見えぬ声色で彼は言った。
「愛している? その姫神子を」
私は答えた。
「わからない。……ただ、ずっと想っている」
シピは詰めていたすべてを吐き出すように長く息をした。そして、言った。
「……ラウリ。私も話していいだろうか」
「もちろん」
「私が助けた、男のことだ」
私は身を動かしてシピの側を向いた。今度は、シピが虚空を見た。
「あのときは、ただ、危ないと思った。自分がかばったのは、だれかもよく考えていなかった。もしあの男だと理解して、冷静に動けていたら、もしかしたらかばわなかったかもしれない。わからない」
そう言って、シピは沈黙した。言葉の先を促すため、私は「あの男も、そう言っていた。きっとおまえは、あの男を憎んでいるはずだと」と述べた。
「憎む……よくわからない。反発めいた気持ちはもちろんあった。けれど、私は囚人だった。管理者へ反抗などできようはずもない」
そう述べて、シピは残った右手を空にかざした。それを見上げながら、言う。
「あの男は、よく私ばかり打ち据えた。なかなか堪えたけれど、助ける者なんかない。あるとき呼び出され、ふたりきりになり、縛られた。そして、思うままにされた」
「……シピ」
「あの男は、私の胤を欲しがった。私は抵抗した。何度もそういうことがあった。憎むというのは、どういうことなのか、わからなくなった」
シピは、私に向き直った。そして、唇を動かさずに言った。
「私は、穢れたと思うか?」
「まさか!」
「ラウリ、私はあなたと話せてよかった」
やがて宵闇は、浅い夢をもたらした。言葉が落ちて、私たちは眠りに着いた。




