二十一 弔い
私はシピの胸に固定された左上腕を持ち上げ、耳を寄せた。聞こえない。わからない。
――間に合わなかったのか。
胸が潰れるような恐怖に駆られ、私は思わず彼の顎を押し上げ、自らの口を覆いかぶせた。冷えきった唇の感触が伝わる。肺の奥に残った空気を押し出すように、必死で息を吹き込む。
その瞬間、背後から怒声が飛び、首が締まる。私はその場に倒れ伏した。
「なにやってるんだよ、ラウリ!」
ウルスラの声が裂けんばかりに高い。そして彼女は言い募る。
「目の前で、そんな顔して、そんなふうに触れて! あたしの前で――」
彼女の言葉を無視し、起き上がってシピの顎を押さえ、また息を送り込む。焦りと祈りとで、視界が滲む。私が「頼む、戻ってこい……!」と口走りもう一度身をかがめると、ウルスラが「やめろ!」と叫ぶ。
「あんた、そんな顔……! 一度だって、あたしに向けたことないじゃないか! なんでそいつには! なんであたしじゃなく、そいつなんだよ!」
駆け寄り、ウルスラは私の肩を掴もうとした。振り払い、振り向き様に私は叫ぶ。
「――私は、幼いころからこの子を見てきた! 我が子とも思っている! このまま死ぬに任せられるものか!」
吐き出された言葉は、自らの血を流すように熱かった。考えよりも先に声が出る。
「あなたにも子があるだろう! ならわかるはずだ! 目の前で、愛しい命が絶えようとするときに――手をこまぬいていられるか!」
ウルスラの瞳が揺れた。怒り、嫉妬、そしてほんの一瞬の迷い。握りしめている拳が、力なく下へ落ちる。私は構わず、再び息を吹き込む。シピの骨ばった体がわずかに沈む。唇に触れる冷たさは、まるで石のようだ。焦りが私を駆り立てる。
――頼む。まだ、行くな。……逝くな。
息を吹き込んでも反応がないので、両手で心臓の辺りを何度も押し込む。そしてまた息を。これはタイヴァスにいたころ、世話人として習った救命の措置の一環だ。自分の息遣いが耳に残る。ウルスラがじっと私を見ているのを感じる。
焦燥に突き動かされ、何度目かもわからぬほどに繰り返した後だった。――微かな咳がシピの喉から漏れた。
全身の血が逆流するように肌が泡立つ。
「……シピ!」
口元が小さく開き、浅い息が震えるように吐き出された。痙攣する肩。やがて、弱々しいが確かな呼吸が胸を上下させる。
思わず、私の目から一筋の涙が落ちた。
ウルスラが、首を振ったのがわかった。拳をほどき、綱を投げ捨てるように放つと、彼女は振り返りもせずに部屋を飛び出した。着いてきた護衛たちが、戸惑い気味に立ち呆ける。
私自身、肩で息をしながらなにも考えられずにじっとシピを見ていた。なのでどれくらいの時間が経ったのかも正確にはわからない。ただ、息を吹き返したという実感が少しずつ胸に広がって行く。
そして、ウルスラのものではない足音が扉の前まで迫って来た。扉は叩かれることもなく勢いよく開けられる。
そこに立っていたのは良い身成の見知らぬ男だった。鉱塵の匂いがふわりと広がる。きちんと整えられた黒い頭髪で、けれどその顔はどこか青ざめ、目の奥には影が宿っている。
「おまえたちは、だれだ」
そう誰何され、私は立ち上がって答えた。
「この者の義理の父です。そちらは、私の護衛に就いている者たち」
男は私の姿をじっと見た後、寝台に横たわるシピを見つめた。その表情は悲しみに塗れ、おそらく彼はシピを弔いに、あるいは看取りに来たのだろうと知れた。その証拠に、胸には喪章を着けている。
「……わかった。あなたと話したい。護衛殿らは、席を外してくれぬか」
男の身分は知れぬが、護衛たちはその言葉に従った。彼が悼む気持ちからそう述べているのがだれの目にも明らかだったからだ。扉が閉められた後、男は私が立つのとは反対側のシピの傍らへと大股で近づいた。
「……死んだのか」
「いや、息はある。先程、蘇生した」
「なんだって?」
彼は目を上げて私を睨めつけてから、もう一度シピを見る。おずおずと手を伸ばして、シピの口元へかざす。何拍か後に、泣きそうな表情で脱力し、彼は寝台の脇に膝を着いた。そして、シピを見たまま語る。
「……命を助けられたのだ。この男に」
そのひとことで、彼がウスヴァカッリオの鉱山管理者だと知れた。ヴィエノから、管理者のひとりをかばったためにシピが怪我を負ったのだと聞いている。見たところ彼に怪我はなく、壮健だ。シピの献身が無駄にならなくてよかった、と思う。
「私を襲ったのは、囚人ではなかった。坑夫だ。突然のことに足がすくんで動けなかった。なのに、この男が私の前に立って、そして」
言葉が途切れた。管理者は拳を握り、震わせている。
私は黙って聞いていた。男の声には怒りと、どうしようもない苦さが混じっている。
「――私をかばうなんて、どうしてだ? 私を許したのか? 忘れられない。夜になると、あの瞬間ばかり思い出す。目の前で血を流したこの男の顔が、頭から離れないんだ」
許すとは、なにをだろう。私は今、彼から懺悔を受けているのだろう。相槌すらもそれには必要なく、私はただその言葉の先を待った。
「私は、どうすればいい? この男に、命を借りた。きっとこの男は、私を殺したいほどに憎んでいたのに。そう仕向けたのは私だ。どうして私を助けたのだ? わからない。どうしてだ?」
告白のような吐露の最後の言葉は、明確に私へと向けられていた。ゆるゆると男を見つめ、私は思うところを述べる。
「……心持ちは、本人に尋ねるしかなかろうよ。それでもわかることはある。知っているか? ……この子は、優しい子なのだ」
静まり返った部屋の中に、私たちの吐息の音だけがある。その中に、シピのものもある。その事実が私の心を穏やかした。男は、左側を覆われたシピの顔を、じっと見たまま「そうなのだろう」と言った。
「あなたの中にあるものが、愛憎であれ罪悪感であれ、彼の命を懸けた証があなただ。彼は、もう労役に就くことも叶わないだろう。どうか、彼の分まで健勝でいてくれ」
男は顔を歪め、じっとシピを見つめたまましばらく黙り込んだ。やがて深く息を吐き、乱暴に額をぬぐうと、立ち上がり、私に向き直る。そして、ささやくように述べた。
「あなたは、この男を大事に思っているか?」
「もちろんだ」
「では――私が彼を弔うことを、許してくれ」
私は目を見開いて男を見た。なにを言うのだろう。せっかく生き存えたのに、また殺すというのか。私は拳を握り、男は言葉足らずを補足した。
「私は、この男を弔いに来た。故郷の土地に返してやろうと。だから――そういうことにしないか」
「どういうことか」
「――死んだことにしてやりたい。帳簿の上から消して……自由を」
私は、さらに目を大きくした。男はじっと私を見ている。しばし、互いに見つめ合い、腹の中を探り合う。
「情けをかけたいんじゃない。……私が、楽になりたいだけだ」




