十九 懇願
牢に入ってからいくらか日数が過ぎた。食事はそれまでと同様に日に二回。不浄壺の交換は毎日。しかし盥での沐浴は一度だけ。刃物を持つことは許可されていないため、無精髭はそのままだ。世話を焼く男は私との会話を禁止されているようだ。目も合わせずに淡々と作業し、去って行く。私と言えばなにもすることがないので、体力が落ちぬよう寒い牢の中でいくらか体を動かすのみだ。それは悪い考えを追い払うにも効果的なようだ。神の足だった時代に行っていた筋力を保つ運動方法を、ただひたすら繰り返す。やってみると体が覚えているもので、無心になれた。
ウルスラは顔を出さなかった。そもそも忙しい身だし、仕事を手伝っているわけでもない私に用はない。それに私を牢に入れたのは、おそらく孤独を味わわせるためだ。彼女が足繁く通ったら、元も子もない。
しかしあるとき、軋む音とともに扉が開いた。身を起こしてそちらを見ると、ウルスラが薄く笑みを浮かべて立っていた。しばしじっと私を見る。そして「髭も悪くないね」と感想を述べた。
「ヴィエノが来たよ。いつも通りあんたに会えると思って。あんた、自分の立場をなにも言ってなかったんだ? あたしに囲われてる身だって」
「……説明の必要もなかった」
「はっははー! あんたにも矜持が残ってたんだね。安心したよ。あたしになにされても動じないから、そんなもん捨てちまったのかと思ってた」
ウルスラは、牢の中へ厚紙の切れ端を投げ入れた。走り書きがされているそれを拾い上げると、彼女は「ヴィエノからの伝言だよ。せめてそれを渡してくれって押しつけられてさ」とつぶやく。
私がそれを読む姿を、彼女はじっと観察していた。だから、私はその内容への驚きを、務めて出さないように振る舞った。
――シピが、長くはない。これ以上の治療は無意味と、療養所から看取りの施設へ移された。
――時間はない。これが最後だ。
それは、なにも持たない私の心を絶望で塗りつぶすには十分すぎる情報だ。幸せになってほしかった。私の娘とともに、ここではないどこかで。後に残したものとして、私のことなどわすれて。それが私の夢で、望んでもいいと思える幸せだった。
私は夢さえも、望みさえも抱いてはいけないのだろうか。ざわざわと、胸の中の空虚な部分に冷たいものが流れ込む。それすらも赦されず、私が犯した罪はなんだろう。
救えなかった記憶が鮮明に目の前に広がる。
産声を上げたばかりのオネルヴァを残し、彼女は去っていった。――私には、何もできなかった。
シピは違う。
オネルヴァを連れて逃げ、守り抜いた。私には到底できなかったことを、彼はやり遂げた。
「なぜ、これを知らせてくれるのですか」
その問いはたしかに私の口から出たのだが、ひどく遠くに聞こえた。ウルスラは私を見たまま「さあ?」と言う。
「ただ、あんたの顔色が変わるのを見たかっただけ。変わんないね。つまんない」
厚紙の切れ端を膝の上に置いたまま、私はしばらく動けなかった。
胸の奥が軋み、吐き出す息が冷えていく。かつて愛した人を救えなかった自分。今またシピさえも、ただ遠くで死なせようとしている自分。赦されるはずもない。
――せめて。
せめて最後に、彼の名を呼ぶことができたら。
口を開けば、矜持などあっけなく崩れ落ちた。
「……ウルスラ」
名を呼ぶと、彼女は愉快そうに目を細める。
「なんだい。珍しく素直に呼んで」
「頼みます。……どうか、シピに会わせてほしい。死に目でいい、ほんのひとときでかまわない」
声は張り詰めて牢の中に響く。私とウルスラの間には鉄の格子だけではなく、泥濘のような感情の川がある。
「――彼は、私ができなかったことを果たした。私の娘のオネルヴァを逃がし、守り抜いた。……どうしても、伝えたいのだ。ありがとうと」
「へえ。あの子のためならそうやって素直に頼めるんだね」
彼女の声は甘やかで、底に鋭い棘を隠していた。私をじっと見る瞳は冷たい。けれど苛烈に輝いている。
「……頼みます」
私はもう一度言う。膝に置いた両手は汗で湿り、爪が皮膚に食い込む。
ウルスラはしばらく黙り込んだ。視線が私をなぶるように行き来する。やがて、吐き捨てるように笑った。
「ほんと、あんたってわかりやすい。あたしには哀れみしか向けないのに、あの子には心からの愛情を示すんだ。……憎たらしいね」
タイヴァスを捨てて、奴隷になった。両親を看取り、囚人になり、ウルスラの気分次第では死ぬこともあるだろう。私のこの後の人生がどうなるのかは知らない。けれど、彼女の答えがどうであろうと、もう他にできることはない。
ただ、私は彼女を見た。彼女も私を見ていた。
「……ああ、ほんと、あんたが憎いよ」
その声は、牢の床を舐めて広がり、かき消えた。




