十八 囚人
シピが命に関わる大怪我をしたのは、鉱山の管理者をかばったからだと以前ヴィエノから聞いた。それは本当らしい。
本来なら無期の労働刑に就いているシピは、高度な治療と手厚い看護を受けられる立場にない。しかし管理者の側からそうするようにとの指示があったようだ。惨殺される可能性があったところを、命懸けで助けられたことへのせめてもの恩返しと言ったところか。
未だ目は覚めず、高熱が続いている。存えられるとすれば、それは運によるものかもしれない。それに、もし生き延びたとしても、彼は依然囚人だ。片腕を失い、労働者としての働きも望めない。なので、おそらくどことも知れぬ牢へと収監されることだろう。
と、すべてウルスラから聞いた。私自身が、シニサラマンの私設牢に入れられて。
療養所から連れ戻された後、鉄の軋む音を背にして、私は石造りの小さな部屋へ押し込まれた。湿り気を帯びた空気が、喉の奥まで冷たくまとわりつく。
ウルスラの灯火の揺らぎに照らされたその瞳は、何度も目にしたことのある苛烈な欲に塗られていた。
「……勝手にいなくなって。どれだけ探させたと思う?」
声は低く、だが震えるほどに抑えられた激情がこもっている。私は返す言葉を見つけられなかった。言い訳も抗弁も、彼女の耳には届かぬだろうと悟っていたからだ。
「奴隷の身分で、しかも謹慎を命じられていたのに。あんたは平気で破った。しかも、だれのもとにいた? 囚人だ」
鋭い声が突き刺さる。
その顔は、怒りと悲しみと、理解の及ばぬ嫉妬に歪んでいた。
「あたしがどれほどあんたを大事にしているか、わからないの? あの子の看病をするあんたの姿を見たときの、あたしの気持ちわかる? 恋人みたいにさ、くっついて。わかってんでしょ。だから行ったんだよね。……あたしには一瞥もくれないのにね」
私は沈黙のままウルスラを見ている。私の眼差しは彼女に向けられている。見ろと言われれば見て、抱けと言われれば抱いて来た。わかっている。彼女が向けて欲しいのは私の心だ。
ウルスラは小さく息を吐き、牢の格子へ手を掛けた。指先が白くなるほど力を込めている。
「いいよ。もうどこへも行かせない。ここならあたしの目の前から居なくなることもないし、あんたがだれかに触れることもない」
その声色には甘やかすような響きと、絡め取るような冷たさが同居していた。
鉄の閂が下ろされる。重い金属音が、静まり返った部屋に響き渡る。
残された私は、湿った石床に腰を下ろした。どこもかしこも冷えきっていて、触れた指先にじんと痛みが走る。
冷たい壁に背を預けると、自分の立場をむざむざと痛感する。私はもはや囲われ人ですらない。嫉妬と執着に縛られた、ただの囚われ人になったのだ。鉄格子の向こうにはだれもいない。足音も、声も、風すら入ってこない。静かすぎて、まるで世界から切り離されたかのようだ。
私はウルスラに哀れみを覚えている。彼女が私を囲うのは愛情ではなく、所有欲と見捨てられる恐怖の裏返しだと知っているからだ。彼女は私に目を向けてほしいのだろうが、それはこの先もずっとないだろう。彼女自身も理解している。そのうえで、なお離さぬよう鎖をかける。
その執着の歪んだ感情がシピに向かったことは当然だった。彼女から見れば、現状で私が心を寄せる唯一の相手が彼だから。
私は彼女を愛してはいない。けれど、彼女の孤独の形を知っているからか、ただ憎むこともできない。彼女の胸を占める空洞は、私自身のものとどこか似ている。
それでも、哀れみが愛情に変わることはない。そこを取り違えるつもりはない。そんなものはまやかしで、向けたところで彼女を一層惨めな存在にするだけだろう。
たとえ、そのまやかしでさえも、彼女が乞い願っているのだとしても。
暗がりの中、シピのかすかな呼吸音を思い出す。衝立の向こうで息づいていたシピを思う。彼の荒い呼吸や、焼けつくような熱。そのすべてに応えるように私は手を動かしていた。それは義務感でも打算でもなく、ただ生きていてほしいという願いによるものだ。
胸の奥をかきむしるような焦燥がこみ上げる。ここに閉じ込められてしまえば、彼の傍に戻ることは叶わない。かつてタイヴァスに仕えていた自分も、今はただの奴隷囚人だ。ここにつながれ、出される見込みもなく、ただ時だけを過ごすことになる。
けれど、彼がまだ生きているのなら、それでいいと思う。どこかで彼が再び目を覚ますなら。片腕を失い、未来を失おうとも、それでも生きているなら。
私が、シピにここまで愛情を傾ける理由を、私は知っている。私の娘を、オネルヴァを、連れ出してくれた。タイヴァスから。あの柔らかな牢獄から。それはかつて私ができなかったことだ。かつて、私が成したかったことだ。
彼の存在は贖罪なのだ。私の罪を贖う者として彼は存在している。真っ直ぐに私を見据え、詰り、走り去った青年。
私には、できなかった。
臆病で、利己的で、かけらの勇気や希望も持たなかった若い日の私には、できなかった。
「カネルヴァ」
およそ二十年ぶりに、その名を声に乗せた。それは静かに冷え切った空間に、広がって掻き消えた。
もう、今後口にすることもないだろう。それでも、そのひとことでまだ、私の中にその存在が深く根付いているのだと知る。心の中で語りかける。
――愛しています。愛していました。私を形作ったのはあなたでした。だからこそ私は、私を生涯赦さないでしょう。
私は、シピのようではなかった。
若い日、私に伸ばされた手。
私はそれに搦め捕られ、今に至るまでずっと、囚人だ。




