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神を担いて、あなたを乞う  作者: つこさん。
この手にある幸せ

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十六 衝立

 数日後の昼過ぎだった。まんじりともせずに過ごしている私を、ヴィエノが訪ねて来た。奥方の姿はない。そして、その表情は陰鬱に沈んでいた。よって、彼が持ってきたのが良くない報せなのだと、すぐにわかる。


「……ウスヴァカッリオからの情報だけれど」


 その声は低く重たい。私は茶の器の縁を、親指でなぞった。


「……鉱山の囚人の一人が、暴徒に襲われた管理者をかばった。重体らしい。移送されてくるから、今、ラウタニエミの療養施設で受け入れ体制を整えて待っている」


 膝の上に置いた両手が震えていた。息を吸うたびに肺が焼け、血が逆流するように胸が詰まった。

 わかっている。わざわざヴィエノがその話を、こうしてやって来て私へする理由。


「……その囚人、は――」

「……背の高い褐色肌の男だそうだ」


 目の奥が焼けるように熱いのに、頬は凍りついていた。怒りも嘆きも、声にならない。ただ、どうしてあの子が、と。


「どこまで聞いてる? 鉱山の暴動のことは?」

「坑夫と囚人たちが、衝突したのだと」

「そう。以前から、坑夫側の囚人たちへの接し方には問題があったらしい。もちろん、束ねる鉱山管理者たちも。なにがきっかけだったのかはわからない。でも、そうなってしまった」


 ヴィエノの吐息には疲れと、少しの怒りが滲んでいた。それは起きた事柄への怒りだと思ったのだが、次の言葉で、重体に陥った囚人――おそらくシピへのものだと、わかった。


「――彼は、自分を虐待していた管理者を守ったんだ。……愚かだと、私は思う」


 言葉を返そうとしたが、喉が枯れたようで声は出なかった。

 ヴィエノは首を振ってから、窓の外へ、今まさにこちらへ運ばれてきているシピを見つめるように目をやる。


「……本当に、一らしいよ」


 その言葉の響きは、懐かしむようで、悲しむようで、私はただうなずくことしかできなかった。

 

 夜更け。蝋燭はとうに尽き、部屋にはくすぶった火の匂いだけが残っていた。横になっても、まぶたを閉じても、心臓の鼓動が耳の奥を叩き続ける。悪い考えを頭から追い出そうとするも失敗し、眠気は遠ざかって行く。

 私は、身を起こした。

 叱責を受けるだろう。監視の目を逃れるのは難しいだろう。それでも。

 シピが血と痛みに沈んでいるのだと思うと、安らかに身を横たえていることなどできなかった。


 音を殺して戸を押し開ける。廊下は闇に沈み、月明かりが窓辺を白く縁取っていた。足音を忍ばせながら、私はざらつく空気の中へ踏み出す。

 ラウタニエミのシニサラマン商会の拠点となる一画は、深い静けさに包まれていた。周囲の家々の煙突からはもう煙が立たず、繁華街の方向から、かすかに賑やかな音が届いていた。裏勝手口には、人影がない。まさか、私がこうして無断で外出するとは思ってもいないのだろう。なので門衛も商品倉庫の近くに立っているはずだ。すばやく私は外へ出た。思ったよりも冷静に。

 これが露見したときのことを考える。どんな罰則を受けるだろうか。わからない。でも今この足を止めれば、私は確実に後悔する。

 ラウタニエミの街の構造は頭に入っていた。そして、ヴィエノは病院ではなく療養施設と言っていた。治療はもう済んでいるのだろうか。

 建物の影から建物の影へ飛び移るように移動する。繁華街にはシニサラマンの人間がいるかもしれないので避けて通る。人気のない路を選んでいたら、目指す場所へ着くのに思いの外時間がかかってしまった。

 煉瓦造りの二階建ての長屋。初めて訪う場所だが、かけられている看板の名前と、窓から漏れる煌々とした灯りで目当ての場所だとわかる。私は正面の戸口に忍び寄り、耳を押し当てた。かすかに話し声と、物音がする。扉の向こうからは、油煙にまじる鉄と薬草の匂いがした。

 私は扉を叩いた。話し声が止む。もう一度叩く。扉のすぐ向こうから、誰何があった。


「運び込まれた患者の親族です。様子を見に参りました」


 その言葉に、ややあってから扉が開かれた。訝しげな表情の女性が顔を出したが、私の顔を見ると目を見開く。そして少しだけまごまごとしてから「どうぞ」と招じ入れてくれる。


 足を踏み入れると、薬と消毒液のきつい香りが襲いかかって来るようだった。それに、血の匂い。床板が軋む音にこちらを見たのは若い男性だ。彼は私へ吐き捨てるように言った。


「……なんの用だ。囚人の見舞いなんぞ、許可は下りてねえよ」

「見舞いじゃない。――様子を確かめたいんだ」


 声を潜めたつもりだったが、喉が張りつくように乾いてうまく声量を抑えられない。

 男性はあからさまに渋い顔をした。だが奥の衝立てから顔を出した老医師が、眼鏡をずり上げてこちらを眺める。


「放っておきなさい。――どうせ寝台のそばまで行ったところで、声をかけられる状態じゃない」


 その言葉に喉が鳴る。重体だとは聞いていた。居ても立ってもいられずに、私は医師の元へ駆け寄る。衝立ての向こうから、更に濃い、血の匂い。


「いいよ、見るといい」


 私はその言葉にすぐさま従った。そして――息を呑んだ。


「……命を拾ったのは奇跡だ。左腕はほとんど皮一枚でつながっていたし、えぐられた顔だ。傷は深い。だが、この街で持ち得る薬と手技はすべて施した。今は熱を下げ、感染を防ぐしかない」


 私は、目にした彼の姿に……なにも言えない。

 左半身が白い布で覆われ、シピだと思っていなければ、だれだかわからなかっただろう。やせ細り、体中に傷を持ち、薄汚れて。

 口が勝手に動いた。


「……水を汲むとか、煎じ薬を混ぜるとか。手を貸せることはないですか」


 若い男性が鼻で笑う。


「囚人のためにそこまで? 妙な情けをかけりゃ、あんたの立場が危うくなる」


 私の立場などとっくに危うい。なので「そんなことはどうでもいい」と私は言った。

 医師はしばし黙考したのち、小さな声で述べる。


「……騒ぎ立てないのなら、看病の手をひとつ増やしてもいい。だが囚人に近づくのは許さぬ。衝立ての外で、湯を替えるぐらいだ」

「それでかまわない」


 答えながら、胸の奥でようやく熱いものが緩む。

 衝立て越しでもいい。ただ、この手を差し伸べられる場所にいられるなら。

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