第七話 最後の朝
シピはまた、眠れぬ一夜を明かす。窓を埋め尽くしていた縹色に染まる空の端から、白々と光が差し込むのを息を殺して見つめる。
新しい日が来ることを、これほどまでに重く感じられたことはない。
どうしたらいいのか、その答えすらない。ただ、堂々巡りの行き場のない思いが胸の奥を埋め尽くしている。それに名前をつけるとすれば、色褪せた後悔。
はっきりとした形もなく、柔らかに、しかし確実に締めつけてくるそれが、シピを動けなくしている。もしだれかに謝ることが許されるのなら、気は楽になるのかもしれない。だが——だれに?
外の気配がわずかに変わる。誰かの足音、木箱を開ける音、低く交わされる言葉の欠片。
静寂を引き裂くように、それらが朝の空気に溶けてゆく。否応なく今日が始まることを知らせるかのように。
シピはそっと目を閉じた。
せめてもう少し、このままで。
それが許されないことは、わかっている。
立ち上がる。石畳の冷たさが足の裏にじんと染みた。知らず知らずのうちに、歩みは御輿の間へ向かっている。
御輿には、これまでとは違う白い布がかけられている。その傍らでは、タイヴァスの従者たちが淡々と支度を進めている。
変わらぬはずの朝。
けれど、今日だけは違う。
——これが、最後の朝だ。
シピが『神の足』と呼ばれることは、今日の役を終えたあと、二度とない。
従者たちの動きをぼんやりと眺めていると、急に背筋が粟立つような感覚に襲われる。
頭を振る。こんなことを考えている場合ではない。シピは身支度のため、水場へ向かった。
そこには『二』と『三』がいた。シピの姿を見て、二はいつも通り穏やかな笑みを浮かべる。
「おはよう、一。ちゃんと眠れたかい」
ずっと浅い夢を見ていたような夜だった。だが、シピはゆるくうなずき、是と答える。その瞬間、ふと気づく。こんな些細なことにまで、嘘を混ぜてしまう自分に。
三は慎重な手つきで髭を剃っていた。彼の茶色の毛は伸びるのが早い上に剛毛なのだ。シピも数個離れた鏡の前に立ち、自分の顔を映す。
わかる。血の気が引いている。けれど、シピの肌は褐色なので、誰かに気取られることはないだろう。
冷たい水をすくい、無言で顔を洗った。
二は、シピと三の身支度が終わるのを待っていた。シピは顔周りの産毛を剃る。刃を肌に当てながら、ぼんやりと思う。
もしも、この鋭利な刃をほんの少し深く滑らせたら——この鬱屈は消えるのだろうか。
「……もういいかい? 朝餉に行こう?」
声をかけられ、シピはゆるくうなずいた。のろのろと、二の後について歩く。
朝餉の席にはすでに、癖のある黒髪の『四』と、長い白金髪の『五』がいた。
こんなに朝早く、すべての『足』が揃うのは初めてかもしれない。シピだけではない。他の者たちも落ち着かないのだろう。
今日限りで、ここにいる『神の足』たちは、その名を失う。
ずっと、まだ身の丈も揃わぬ頃から親しんできた、その名を。
オネルヴァを、次の地へ——『器』となるための時間を過ごす部屋へ送り届けることによって。
言葉は少なかった。けれど、わずかな仕草の端々に、それぞれの思いが滲んでいる。ほっとしたような者もいれば、緊張した面持ちの者もいる。
だから、シピが『神の足』という存在そのものに疑問を抱いていることには、だれも気づいていない。ただ、少し上の空なのだろうと受け取られているに過ぎない。
オネルヴァが、これから『胤』たちを受け入れる『器』となる。
その事実が、胃の奥に重くのしかかった。
ぞわり、と嫌悪感がこみ上げる。それは恐怖にも似ていた。だが、それだけではない。駆り立てられるような熱、息を詰まらせるような衝動。これは――憎悪?
こんな感情は初めてだった。持て余す。言葉にできない。
なのに——叫び出したい。
すべてを、壊してしまいたい。
シピは自分がわからない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
シピは、オネルヴァが『器』として扱われることに耐えられない。
彼女は『姫神子』などではない。
そんなものは、存在しない。
けれど、時は戻らないし、止まりもしない。なので、最後の役は、やはりやって来てしまった。
いつもの通り、御輿の前に立つ。いつもと違うのは、多くの薄絹の上から、さらに白い布をかけられていること。なので彼女の視線は遮られて感じられなかった。そこから白くて小さな手が出て来ることも思い描けない。失望しながらも、シピは淡々と自分へ垂れ幕を巻いた。
今日はいつも通る渡り廊下とは逆方向へ。黒髪の従者がシピたちを先導する。
タイヴァスの中でもひときわ高い場所。
約半年――穢れと呼ばれる月経が、六回目を数えるそのときまで、オネルヴァはそこで過ごすことになる。それは強い『器』になるためだと聞いている。
その後、彼女は――
シピは、瞑目した。