六 移送
朝の支度で、首巻きを整える手つきが板についた。ウルスラは「似合うよ」と言う。
そのたびに、喉奥に貼りついた声が嘲笑に似た否定をささやくが、それは外には出なかった。
私は彼女の仕事のいくらかを任されるようになり、役職ができた。それでも、シニサマラン内部での私の立場は彼女の所有物だ。当たり障りなく接される。ときおり、合流したウルスラの娘のファンニが無遠慮に私に触れるだけ。その程度。
物流に混じって手紙が届くこともある。これは、役を得たからだ。仕事上で必要な内容もあるし、私信のこともある。ただの奴隷であったら、このような外部とのやり取りなど許されないだろう。
ファンニがしたり顔で届けてくれたヴィエノからの便りは、三カ月ぶりだった。受け取るために私は一時間ほど彼女から触られるままになった。
書かれていたのはとりとめのない近況。見合いを勧められていること。相手は裕福な家庭のお嬢さんで、悪くない話なこと。想いを寄せられてまんざらでもない様子。自分も子が欲しいと思い始めたこと。封を開けても、もはやそこに『シピ』の名はない。結びには、本格的に寒くなる前に一度立ち寄ってほしいとの願いが書かれている。
毎月手紙をくれとねだったカリへの封書は、宛先人不明で差し戻されるようになった。寄進に訪れようにも役を果たすその姿もない。消えたのか。消されたのか。それとも私を拒否しているのか。それすらもわからない。
封を閉じる音が、やけに乾いた響きを立てた。
タイヴァスからの、返事にならない公示がなされてから、二度目の冬が来る。
霜の降りた朝、茶の入った器の湯気越しに見るウルスラの笑みが、妙に温かかった。
「いいよ、行っといでよ。ラウタニエミだろ? ちょうど、そちらへ流れようと思っていたところだ」
そう言って、彼女は首巻きの上から奴隷の証に触れる。その動作の示すところを正確に理解しながら、私はうなずく。
商隊の野営で浅い眠りにつくと、心にかかっているいくつもの顔が夢に浮かんだ。六歳以来会っていない、閉ざされた雪山に住む養父母。行方の知れない私の娘オネルヴァ。シピ。
養父母へは、ときおり易しく書いた手紙と、生活物資を送っている。今は私も給金を得ているので、自分の手取りから購入したものだ。タイヴァスにいたころよりも身動きがとれるので、定期的に。使いの者から様子を聞いてもいる。養母が、腰を悪くして寝起きが難しいらしい。何度も、もっと便利で、私も訪れることができる場所への移住を勧めたが、二人は首を縦に振らないとのことだ。
娘オネルヴァは、国境を越えて隣国へ逃れたことが確認できた。その後の足取りは、私では確認できない。けれど、心の底から、泣きそうなほどにほっとした。
そして――シピ。三度、タイヴァスへ照会の連絡をやった。公示にあったように、彼は労働刑であり、存命なのか、と。
もしや秘密裡に処刑されているかもしれないと思ったからだ。それに対する返事は無反応。タイヴァスは、これに関して一切の情報を出さないことに決めたらしい。
彼らの心配をしていられるほどに、良い身分ではないけれど。それらを憂えることができるほどに、私はこの、ウルスラの所有物という立場に――慣れた。
移動を繰り返し、遠くの空に立ち昇る灰色の煙を見るころには、厚手の冬物外套が必要になってきた。ラウタニエミは雪の積もらない地方だが、その分乾いた風が厳しい。
ファンニは、街へ到着する前に、父親であるヤルノに連れられて違う隊列に行った。ウルスラはおもしろそうに放置しているが、ヤルノは、ずっと私に執着している娘の状況を良くは思っていないのだろう。それはそうだ。あまりにも健全とはかけ離れている。年明けには十歳になるファンニは、理解しているのだから。私の立場を。自分の母親との関係を。
なので……ファンニが私を見るとき、その視線は父を見るものとは違う。
ひさしぶりに見たラウタニエミは、干した魚の匂いと馬糞の温い蒸気が入り混じっていた。行き交う声は、北の訛りと南の言葉が入り乱れ、どれもがせわしない。私はヴィエノへ先触れを出して、予定を尋ねた。返事が来るまでの間、商会の拠点にて移動期間中の収支の計算をする。
空気の入れ替えで窓を開けると、ガヤガヤとした騒音が飛び込んでくる。タイヴァスに長く住んだ私にとって、最初のうちそれは苦痛をもたらす音だった。けれど、今は自分をその中に置ける静けさを理解して、とても気に入っている。
それほど時間もかからずにヴィエノから連絡が来た。ウルスラに了承を得て、今夜、指定された酒場で落ち合うことになった。そんなことも許されるほどに、今私は籠の中で自由を得ている。
「ラウリ! ひさしぶりだ!」
約束の時間よりもいくらか早く到着すると、奥の席から手を振る茶髪のヴィエノの姿があった。私はほほ笑みながらそれに応じて、話し声と人の合間を抜けてそこへ行く。
すでにヴィエノの手元には酒があった。頼んでいないのに同じものが私へも届けられ、口にしてみると喉が灼けるほどの酒精で目を見開く。ヴィエノは笑って「強ければ炭酸で割ればいい」と手元の瓶を勧めてくれた。
「来てくれてよかった。他の奴らはなかなか来られないけれど、あなたは移動されているから、こっちに来てくれればいいと思っていた」
「どうした? 見合いのことか?」
「そう! 相談したくて。既婚者の意見を聞きたいんだ」
私は、ヴィエノの無邪気なその言葉に、息が詰まったようになった。ヴィエノはそれには気づかずに続ける。
「まあ、条件はいいんだよ。条件は。ルミキヴェンっていう石鹸とか作ってる会社の工場長の娘さんで。ほら、私は今鉱物博物館の学芸員をしているだろ。安定はしているけれど、それだけって感じでさ。あ、なに食べる? 芋揚げはさっき頼んだ」
「ありがとう。この店のお勧めはなにかな」
「鶏の煮込みかな! おーい、姉さん、煮込みひとつ、こっちに!」
「ところでヴィエノ、訂正したいことがある」
「なにさ?」
身を乗り出したヴィエノの肘が、机の上の皿をかすかに鳴らした。
私が改まって言うと、ヴィエノはにこにこと私を見た。私はなるべく深刻じゃない声色を心がけながら「私は、既婚ではないんだ」と述べた。
「えっ、でも、シニサマランの商会長といっしょになったんだろ?」
「……彼女は、独身主義者で。結婚は、していないよ」
ヴィエノは、黒い目を真ん丸にした。これは、嘘ではない。
事実、ウルスラはだれとも婚姻関係にない。長く連れ添い子を成したヤルノとでさえ、制度上の結婚をしていない。たぶん、そうした枠組みに捕らわれるのが嫌なのだろう。
ヴィエノは、しばらく私の顔を眺めた後「なんか、すごいね。大人って感じだ」と感想を述べた。
それでもしばらくは、ヴィエノの相談事を聞いていた。半分くらいはのろけだ。見合い相手のお嬢さんは、博物館へたびたび見学に来る女性だったらしい。見初められたということなのだ。よろしいことだ。ヴィエノが……私が息子とも思う者が、そうして幸せになって行くのを、私は幸福な気持ちで見守る。
なので、人々のその言葉にヴィエノも反応したのは、ある意味意外だった。
「囚人労働者たちが、近々移送されるらしい」
だれが述べた言葉かわからないその一言に、酒場のざわめきが一瞬だけ薄れたように感じた。外から吹き込む隙間風が、足元で冷たく渦を巻く。確かに私たちの耳に入ったそれは、したたかに酔った体を冷やす。
私とヴィエノは、目を見合わせて、耳を澄ませた。
互いに、なにを考えているのか手に取るように理解できた。たとえ、手紙には書かなくとも。
ずっと心にかかっている。――シピ。




