二 驚愕
シピ――声に出さず私はつぶやいた。あの青年、娘とともに送り出した者の名前だ。
なぜ彼だけなのか? 娘は、オネルヴァはどうしたのか? 二人を預けた両親へ、彼女から遣いがやられ、ともに国を出たとの報告を聞いた。だから、心底安心していたのに。
彼女――ウルスラは、私をじっと見てはっきりとした口調で言った。
「なんであんたの娘ちゃんはいっしょじゃないんだろうね?」
それは私の心情を探り当てた言葉で、動揺から私は無表情を作れなかった。まともにウルスラを見て、そして目を逸らす。
最悪な事態ばかりが思い浮かぶ。オネルヴァは、なぜシピとともにいないのか。あの子はひとりではなにもできない。そもそも、なぜ戻ってきたのか。タイヴァスに捕まり、シピが無事でいられるわけもない。
私は必死に心を修めて取り繕おうとした。
ウルスラは私をじっと観察している。
「いつもなら眉ひとつ動かさず受け流すくせに。さすがにこれには無関心でいられないか」
ウルスラは飾られた首輪の縄を引き、私を自分へ向かせた。私は彼女を見る。彼女も私を見る。
「……ねえ、あんたの目。そのキレイな、蒼碧の。くり抜いてあげようか? そんで、瓶に入れて飾るの。いいでしょ?」
私は「どうぞ」と答えた。ウルスラは噛みつくように私へ口づけ、そして突き飛ばした。
「他のヤツのこと考えて、置き去りにされた犬っころみたいな顔しやがって」
そう言い捨てたウルスラは、興味を失ったかのように踵を返し歩き始めた。その手には私を繰る縄があるので、立ち上がり私もそれに続く。
ここは、移動を繰り返す生活のウルスラが持つ拠点のひとつ。乾燥地帯で、吹き抜ける風には砂が混じる。
向かった先には寝台があった。私は乱暴に引き寄せられ、横たえられる。ウルスラは私にまたがった。
「言いたいことあるでしょ? あたしに。ねえ、なんかさ」
ウルスラの無遠慮な手は私の腰帯を解き、胸をはだけさせる。男のくせに華奢すぎると何度も笑われた肌に触れられても、もはや私はなにも感じない。
「……助けてください」
言葉ひとつでどうにかなるなら、そんなものは惜しまない。欲しいと強請られたものが命であれ、私は差し出しただろう。
「それだけ?」
からかう声色で彼女は私の腕を持ち上げて手首を噛んだ。なんという滑稽な、三流芝居だろう。
「愛しています」
「よくできました」
飼い犬を褒める要領で、ウルスラは私の体を撫で回す。今このときは、私は私の容れ物に過ぎないと思う。私は目を閉じて彼女の気が済むのを待つ。
翌朝早くに、ウルスラは私を寝台に縛りつけたまま放置した。催して不浄場へ行きたいと私が思い始めたあたりで戻ってきて、告げる。
「行くよ。ラウタニエミだ」
シピが捕まったのはその都市なのだという。私は感謝とともに頭を垂れた。
ウルスラの持つ商隊は移動しながら商いをする。もちろんそれぞれの都市に実店舗もあるが、それらをつなぐ流通網そのものが動く店舗なのだ。ちょうど今移動中の隊列があり、私はウルスラに伴われそれへ合流した。
口さがなく陰口を叩かれるのにはもう慣れた。無遠慮な視線も、ウルスラの目を盗んでかけられる侮辱の言葉も。なので、このときも飾り立てられ連れ歩かれることになんの痛みも生じなかった。
ただ。私はこのとき大きく戸惑い、動揺もした。合流した隊列には幾人かの子どもたちがいた。それ自体は、なんら特別なことではない。
「アイティ」
ウルスラをそう呼び、駆け寄って抱きつく少女がいた。背丈や服装を見ると、十にはならないくらいだろう。私は瞠目する。そして信じられない気持ちで、ウルスラの顔を見た。その表情は、これまでに目にしたことがないほどに慈愛に満ちている。
その呼びかけは、親しみを込めた母への呼称だ。
ウルスラに抱き上げられて「大きくなったね、重いよ。もう抱っこはムリかな」と言われた少女は、ウルスラの首にしがみついて首を横に振る。そしてじっと私を見た。私の首からつながる綱を、その先にウルスラの手があることを。私が何者かを、理解している眼差しで。
私は――そのときにこそ我が身を恥じた。
少女が隊の他の馬車へ走り去って行ったのは、ひとしきりウルスラに甘えた後だった。そちらにウルスラの内縁の夫がいる。今度はそちらに甘えるのだろう。
少女の姿が完全に見えなくなったときに、私はウルスラの顔をまともに見て、尋ねた。
「……あなたには、子があったのですか」
「うん。あれ、言ってなかったっけ? ファンニっていう。そろそろ八歳かな。かわいいだろ?」
私は言葉を失う。いや、なにをどう口にすればいいのかわからなかった。ただ、ウルスラに対する反発、それに明確な批難から、少しだけ語気が強くなる。
「――子がありながら、私を囲ったのですか」
「そうだけど?」
「あなたの娘さんは、私の存在を理解している。こんなことがあってはならない!」
「じゃあ、どうするのさ?」
ウルスラは、おもしろそうな表情をして私に向き直った。そして私へと問う。
「あたしは、あんたに助けてくれって言われた。だから助けた。その褒賞として、あんたをもらった。ねえ、あたしに拾われなかったら、あんたどうなってたの? あんた、自分の身以外にあたしへなんか報いを与えられるの?」
私は首を振る。それは彼女の言葉を否定するものではなく、彼女を理解できないという気持ちから。
わかっている。私の立場でこんなことを言う資格はない。それに、この身に落ちてまで道徳を説くつもりもない。なので、この義憤もただの偽善だ。
少女ファンニは、しだいに母ウルスラの馬車……私がいるところへ入り浸るようになった。
私が席を外そうにも、綱の先はウルスラに握られている。ウルスラは心底おもしろがっていて、ファンニが来ることを拒みもしない。少女のガラス玉のような榛色の目にじっと見つめられている間、私はただそこにある人形として息を詰める。
目的地であるラウタニエミに到着するまで、私はそのように過ごした。ただ、自分の存在がどこまでも異物であることをむざむざと自覚させられる日々だ。
ウルスラから触れられる機会は減った。娘の目の前でそうするほどに、彼女も壊れきってはいない。
なので、次のファンニの言葉は、ウルスラにとっても衝撃であったのかもしれない。言われたとき、彼女は少しの間沈黙していた。
ファンニは少し首を傾げて、ウルスラと私を交互に見た。まるで本当に、おもちゃをねだるかのように。
「アイティ、あのね、アイティのそのお人形、あたしにちょうだい?」




