第五十五話 ずっと【挿絵あり】
ヴァロは、今年四歳になった。なので、りっぱな大人の男だ。
昨日は、家の庭にある太い樹の根っこを飛び越えることができた。それに、大きい蜘蛛が出ても、もう怖くない。たぶん。家に来たお客様へあいさつできるし、自分の名前だって読めるようになった。じいじの仕事の手伝いで、本を背の高いのから順番に並べたこともある。今朝は、下着の釦をふたつも留められた。
そのうえ、もうカラクッコをこぼさずに自分ひとりで食べられるのだ。これはすごいことだ。りっぱなことだ。
なので、家から出てひとりで村の中を探検だってできる。遠くへ行っては駄目と母ちゃんは言うけれど、ヴァロは大人の男だ。男には旅をする理由があるのだ。より大きな大人となるために、男には多くの経験が必要なのだ。
「ヴァロ、散歩かい?」
「ちがう、たんけん!」
「あんまり遠くへ行くんじゃないよ、母ちゃんに怒られるよ」
隣りの家のインピ婆ちゃんは口うるさい。母ちゃんといっしょで、男のことをわかっていない。しかたがない。インピ婆ちゃんも母ちゃんと同じで、きっと村から出たことがないのだ。
ヴァロはじいじの仕事について行って、何度も村の外へ出たことがある。じいじは村と国境を往復して、医者をしているのだ。ヴァロは国境警備隊の人へちゃんとあいさつをするので、よく戦いごっこをしてもらえる。強い男になるには戦いごっこが必要だ。だから、村から出たことがあるし、それは大人の男の証拠だ。
ヴァロは探検の道を歩く。インピ婆ちゃんの前を通り抜けたので、次はペッコラさんの家の鶏小屋だ。あの家の鶏は、ヴァロを見るとけたたましく鳴いて近寄ってくる。でも小屋の外から見るので怖くない。ちょっとびっくりするだけだ。
その後はウルホの家の前を通りかかる。ちょっとだけ家を覗いてみると、いなかった。だから、またぐるりと探検してからもう一度来ようと思う。遊ぶ約束をしているのだ。ウルホはヴァロの三歳上で、七歳だ。ヴァロよりもちょっとだけ大人なので、エーロさんが開いている塾へ通っている。
エーロさんは大きいお鼻のおじさんで、村の教師だ。でも、ヴァロはあんまり好きじゃない。だって、母ちゃんのことをじっと見ているときがあるのだ。ヴァロの母ちゃんは、ヴァロの母ちゃんだ。エーロさんがじっと見ているのは嫌だ。
でも、ヴァロも自分の名前が書けるようになったら塾へ通うのをたのしみにしている。勉強はたのしいとウルホも言っていた。字を書く練習は難しいけれど、がんばろうと思う。
村を半周したところで、床屋の家のサデおばさんがヴァロを見て、小走りにやって来た。とても怖い顔をしているので、前髪が長いから切ってやると言われるのかと思う。ヴァロは床屋が怖い。鋏が顔の周りでちょきちょきするのは、すごく嫌だ。逃げようかと思う。
「ほれ、行くよ! 抱っこしてやる!」
そう言うと同時にヴァロは抱きかかえられる。サデおばさんは大きい体を揺らして風みたいに走った。おばさんがこんなに速く走れるなんて知らなかった。今度、かけっこのしかたを教えてもらおうとヴァロは思う。
ヴァロの家へあっと言う間に戻って来てしまった。じいじと母ちゃんと三人で住んでいる、部屋がたくさんある家。ときどきマリッカおばさんが遊びに来る。サデおばさんはぜいぜいと息をしながらヴァロを降ろし、そして背中を叩いて言った。
「家の中に入っておいで! 母ちゃんといっしょに居な!」
「なんで?」
「よそもんが来たんだよ! へんなナリのヤツだ。おまえみたいな子どもは、いっぺんに拐われちまうよ!」
ヴァロはびっくりした。よそもんという言葉は、あんまり良くない人に使われると知っている。マリッカおばさんはこの村に住んでいないけれど、よそもんではないはずだ。村の人があんまり好きじゃない人が『よそもん』なのだ。
それにしても、とヴァロは思う。サデおばさんはヴァロを子どもと言った。もう四歳になったのに、なんてことを言うんだろう。ヴァロはりっぱな大人の男なのに!
子どもとは、ロイリさんの家のシニちゃんみたいに、自分で歩けるようになったばかりの子を言うのだ。ヴァロは片足立ちだって得意な、大人だ。だからサデおばさんの言うことは聞かないことにした。
それに、家に入ってしまうと母ちゃんにつかまって、きっと字の書き取り練習をさせられてしまう。早く上手くなりたい気持ちはあるが、ヴァロは机に向かってじっとしているのが苦手なのだ。なのでヴァロは庭へ行った。石を裏返してダンゴムシを丸くしようと思う。
しばらくひとりで遊んでいた。そのうち飽きて、もう一度ウルホの家へ行こうかと思う。よそもんもきっと飽きてどこかへ行っただろう。そう思って石を元の位置へ戻していたとき、影が落ちてヴァロを覆った。なんだろうと思って、ヴァロは空を見上げる。
大きな人が立っていた。ヴァロが見たことのある、どんな大人よりも大きい。ヴァロを見下ろしている。顔の半分を黒い布で隠しているのと、太陽の光が邪魔して、どんな表情をしているのかがわからない。それに、なんだか片方の腕がへんな感じだ。袖がない。
ヴァロは気づいた。きっとサデおばさんが言っていた『へんなナリのよそもん』だ。
ちょっとだけ怖くなって、ヴァロはその場に固まった。
「……この家に住んでいるの?」
よそもんは、聞いたことのない低い声で言った。ヴァロはうなずく。でも、ちょっとだけ震えてしまった。よそもんに会ったらどうすればいいのだろう。死んだふりだろうか。よそもんはヴァロを拐ったり、ダンゴムシみたいに丸めるだろうか。どうしたらいいだろう。やっぱり死んだふりだろうか。
「いくつになった?」
「よんさい」
「――そうか。……大きいな……」
つぶやくようなその言葉に、ヴァロは気を良くした。よそもんは『わかっている』やつだ。そうだ、ヴァロは四歳になったので、大きくなったのだ。大人の男だ。
ヴァロはよそもんに、樹の根っこも飛び越えられることを教えてあげた。よそもんはうなずいて、それはすごいことだと褒めてくれた。いいやつだ。サデおばさんはきっと、自分より大きいからよそもんが嫌いだったに違いない。
ヴァロは立ち上がって、実際に樹の根っこを飛び越えて見せてあげた。よそもんはすごく感動したようで、どこか涙声で褒めてくれる。ヴァロはいい気になって、今度サデおばさんと競争して、かけっこで勝ってみせると約束した。よそもんはうなずいて、それはいい、ぜひ見たいと言う。
風が通り過ぎて、よそもんの髪の毛が揺れた。隠されていない顔の半分が見えて、ヴァロと同じ褐色の肌で黄金色の瞳だとわかった。髪の毛の色はヴァロの黒いのとは違って、母ちゃんがときどき飲むヤギの乳を入れた珈琲みたいだ。よそもんは、とてもやさしい目でヴァロを見る。
「……名前は、なんというの?」
「ヴァロ。ひかりっていみだって、かあちゃんがいってた」
尋ねられたので、ヴァロは答えた。
よそもんは、息を深く吸って、吐いた。そしてヴァロの前に膝を着く。正面から見たよそもんは、汚れて、傷だらけだ。びっくりしてヴァロは、早くじいじのところへ行こうと言った。
「じいじ? だれ?」
「じいじはね、こっきょうけいびたいの、おいしゃ。たたかいごっこもできる。よわい」
「……アノ先生か」
よそもんは泣きそうになっている。傷が痛むのだろう。ヴァロはよそもんの服を引っ張って、家の中へ連れて行こうとした。よそもんは袖がある方の腕で、ヴァロをぎゅっと抱きしめる。
「……会いたかったよ。……ヴァロ。ずっと。――ずっと」
よそもんは、ヴァロの肩に顔を押しつけて体を揺らしながら泣き始めた。ヴァロはびっくりして、どこが痛むのか聞いた。けれどよそもんは、どこも痛くないと言いながら、そのくせヴァロが背中をさすると、ますます泣く。
どうしたらいいだろう。ロイリさんの家のシニちゃんを泣かせてしまったときは、へんな顔をしたら笑ってくれた。だから今回もへんな顔をしてみたが、よそもんはヴァロをぎゅっと抱きしめていたので、顔を見せられなかった。
そのとき、家の中からヴァロを呼ぶ声がした。母ちゃんだ。ヴァロが返事をして母ちゃんを呼ぶと、よそもんの体がびくりと震えた。
「――ヴァロ、お部屋を散らかしたままでしょう、戻りなさ――」
叱り声で言いかけた母ちゃんは、よそもんと一緒にいるヴァロを見て言葉を止めた。ヴァロは母ちゃんによそもんを紹介しようとしたが、そういえば、だれだかわからない。
よそもんはヴァロの肩で涙を拭うようにして、ため息をついて立ち上がった。そして、母ちゃんを見る。母ちゃんも、よそもんを見返す。
ヴァロは、よそもんをよそもんと紹介したら、母ちゃんが死んだふりをしてしまうだろうかと思って悩む。しばらく二人はじっとしていて、けれどヴァロが声を出すより先に互いに駆け寄り、ぎゅっと抱きしめ合う。ヴァロはびっくりした。
「――シピ! シピ! シピ! ……シピ!」
「うん。私だ――オネルヴァ……」
よそもんから見ると、母ちゃんはずいぶん小さく見えた。よそもんは片腕で母ちゃんを抱きしめているだけなのに、母ちゃんの体はその腕にすっぽり隠れてしまう。でも、母ちゃんが泣いているのは声でわかった。よそもんも泣いている。
これは、二人ともぶつかって怪我をしたに違いないと思い、ヴァロはあわててじいじを呼びに行った。
「なに、なに。急患か」
じいじは最近度が合わないとぼやいている眼鏡をかけ直して、ヴァロを見る。ヴァロはその腕を取って引っ張った。
「かあちゃんとよそもんが、ぶつかってケガした!」
「なんと、そりゃ大変だ。ところでだれだ、よそもんて」
「わかんない、よそもん!」
じいじは医者の鞄を持って、ヴァロに手を引かれて庭へ出た。母ちゃんとよそもんを見て、そこで立ち止まる。
眼鏡を指で押し上げ、驚いた声でつぶやいた。
「こりゃあ、びっくりだ……」
母ちゃんとよそもんは、じっと互いの顔を見つめていた。母ちゃんは、よそもんの袖のない方の肩に触れ、そして顔を覆う布に手を伸ばす。
「左腕は……どうしたの?」
「……怪我をした。切り落とすしかなかった」
「顔は……?」
「そのとき、いっしょに。目もやられた」
たいへんだ、とヴァロは思った。よそもんは、腕も、目も怪我をしていたのだ。きっとだれかと激しい戦いごっこをしたに違いない。
ヴァロも戦いごっこで膝をすりむいたとき、痛くて泣いてしまったことがある。それなのに、よそもんは母ちゃんとぶつかったうえに、そんな大怪我をしている。ぜったいに重症だ。
「――ずっと、言いたかったことがあるの」
ヴァロはじいじの手をもう一度引っ張った。けれどじいじは首を振る。
「あなたが言ってくれたとき、その言葉の意味がわからなかった。でも、ずっと知っていたの。――ずっと、ずっと。同じ気持ちだった」
母ちゃんが泣きながら言う。よそもんは、ただじっと母ちゃんを見つめている。
「――愛している。シピ。だれよりも。ずっと。ずっと」
母ちゃんとよそもんが、またぎゅっとしようとしたところで、ヴァロはじいじに目を覆われた。そしてそのまま抱き上げられ、頭をぽんぽんと叩かれる。
「はい、子どもが見るもんじゃない。……さて。お父さんが好きな珈琲でも、淹れるかね」
なぜか、じいじはヴァロを抱いたまま家の中へ戻ってしまった。よそもんが大怪我をしているのに。
ヴァロはじいじの腕の中で、子どもじゃない、と抗議した。
イラスト提供:汐の音さん
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ありがとうございます!!!!!
これにて完結です。
読んでくださりありがとうございました。
感想をいただけるとうれしいです。
後日、シピの空白の四年間について書いた、後日譚を追記いたします。
お気が向いたらまた立ち寄ってください。
ありがとうございました!!!




