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神を担いて、あなたを乞う  作者: つこさん。
本編

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第五十二話 別れ

 最後に、シピがオネルヴァへかけたのは、ただ愛の言葉だった。それ以外になかったから。


 納得などしてはくれなかった。泣き腫らして眠り、はっと目を覚ましてシピを探す。見つけると、すがるようにしがみつく。それを二日繰り返した。

 食事どころか水すらも口にしてくれない。腹の子のためだと言っても聞かない。なのでシピも同じように飲食をやめた。すると、カラクッコをシピの口へ押し入れようとする。なのでシピもやり返す。まるでままごとのようなやり取りだ。


 シピの決意が揺るがないことを、オネルヴァは早い段階で悟っていた。その瞳の奥にある悲しみを見れば、すぐにわかる。泣いても喚いても、すべては決定事項なのだとわかっている。けれど、理解と納得は別物なのだ。シピだって、心底納得できているわけではない。

 オネルヴァのことは、アノ医師が引き受けてくれると確約してくれた。身寄りのない未成年者であるオネルヴァには、法に則って後見人が選出される見込みだ。彼は、自分がそれに名乗りを上げると言ってくれたのだ。

 アノ医師は若いころから長くシルタで人道支援に従事し、負傷を機に四十代で勇退した。そして、現在は国境警備隊の常駐医師という安定した職に就いている。これほど身元のはっきりした、信の置ける後見人もいないだろう。

 シピはアノ医師の手を取って感謝した。心の底から、深く感謝した。彼ははっきりと、安心するようにと述べてシピを励ましてくれた。


 自分の子がどんな子なのか、見てみたかった。できることなら、この腕に一度でも抱いてみたかった。さみしい。悲しい。ただ、元気に――せめて、元気に、生まれてきてほしい。

 自分の目で我が子の未来を見られない悔しさもある。オネルヴァへひとり親としての苦労を経験させてしまう後ろめたさもある。

 けれど。


 気持ちを残すようなことがあってはいけない。心配で振り向くことがあってはいけない。タイヴァンキへ戻るシピは、罪人として囚えられるだろう。

 その後どうなるのか、シピにはわからない。神の足がタイヴァスに反旗を翻した例など聞いたこともない。おそらく、シピが史上初めてだ。


 死刑だろうか。

 わからない。


 オネルヴァは、笑わなくなってしまった。最後に笑顔が見たかったと思うのは、シピのわがままだろう。

 だから、自分は努めて笑顔でいようとした。


 たどってきた道を、逆戻りする。

 滞在していた村から、タイヴァンキとの国境線へと。


 オネルヴァも着いて来ると聞かない。シピは言葉では窘めたけれど、できればぎりぎりまで、いっしょの時を過ごしたかった。だから、強くは止めない。ゆっくりと進む馬車の中二人で、無言で手をつないでいた。

 念のために、アノ医師の他に、マリッカ女史も。他のシルタの二人も、ともに来た。わかっている、みんな別れを惜しんでくれている。

 国境警備隊には、シピが来ることは知らされていたらしい。アノ医師は深く説明しなかったのだろう。難民申請が上手く行かずに、強制退去だと思われているようだ。事情を知るのは少数の者だけでいい。


「残念だったなあ。奥さんだけ通ったのか」

「そうなんだ」

「まあ、生きてりゃどうにかなるよ。もう一回、がんばれ」


 悪気なく警備兵にそう言われる。心底の善意だ。

 生きていれば。その希望を持てるだろう。

 生きていれば。

 オネルヴァが、シピの手をぎゅっと握った。


 しばらくの間、黙って二人で立っていた。国境線の、手前側で。

 オネルヴァは見るからに身重で、シピはその夫だ。急かそうとする者もいない。

 けれど、いつまでもそうしているわけにはいかないので。ただ心が弱くなるだけなので。シピは、オネルヴァへ腕を広げる。打ち沈んだ表情で、オネルヴァはシピの胸に顔を埋める。


「……元気で」

「……はい」


 小声でそう交わした。なにかを話そうと思っても、なにを話せばいいのかわからない。子どものこと、これからのこと、語るべきことはいくらでもあったけれど、なにも言えない。

 ただシピは、オネルヴァの耳元に唇を寄せて言った。


「愛しているよ。だれよりも。ずっと。オネルヴァ」


 それだけだった。


 腕の中の温もりが離れると、途端に冬がやって来たように思えた。長く厳しい夜の期間が。シピにとってはまさしくそうだ。

 その足で、開かれた門から国境の標石を通り過ぎる。そして――タイヴァンキへ。振り返ると、オネルヴァが、出会ったばかりのころの無表情でシピを見ている。


 開いてしまった距離越しに、じっと見つめ合う。互いに疲れて、いくらか汚れて、少しだけこけた頬。まぶたの裏に刻みつけて、目を閉じて、思い浮かべる。……だいじょうぶだ。わすれないでいられる。

 笑って、シピはオネルヴァをみつめた。別れの言葉を口にして、踵を返す。門がゆっくりと閉ざされていく音がする。


「――シピ!」


 呼ばれて、振り返る。オネルヴァがマリッカ女史の腕を振り切ろうとしている。門が閉まっていく。オネルヴァの声が、すすり泣きが響く。シピは笑って、泣いて、完全に門が閉まるのを見届けた。


 多少申し訳なさそうな音を出し、門は閉ざされた。


 オネルヴァの声が、泣き声が、耳の奥でいつまでもこだましている。

 なのに。こんなにも……別れはあっけない。


 シピは、だれも見てはいないと知りながらも、大きく手を振った。そして、冬を越したキヴィキュラとは真反対の進路を取って歩く。たとえどんなことがあっても、ケシュキタロの爺と婆に迷惑をかけたくはない。それに、きっと悲しむ。もしシピの行く末とオネルヴァの現状を知ったら、二人は悲しむ。


 何日も移動している間に、若い鹿に何度か出会った。死ぬかもしれない自分の糧として狩る気はおきなくて、見逃した。やがてさらにその数日後に大きな街路へ出て、そのまま南下する。ざっくりとタイヴァスの方向を目指しているけれども、その前にたどり着く街で名乗り出よう。そう思う。

 馬車などの人工物と行き合ったのは、街路に出てしばらくしてからだ。人恋しくなっていたのか、それだけで心がほっとする。人の声が聞きたいと思った。馬車が向かった方向へ歩き続けると、二日後の朝に外壁が見えた。


 街の入口を探して、関所の列に並ぶ。以前ウルスラの商隊とともに逗留したサルキヤルヴィの街は、こうした関所がなかった。ということは、それよりも大きな都市だ。シピの番が来て中へ呼ばれる。

 清潔とは言い難いシピの身なりに、卓についた係官は少し怯んだ。しかし冷静に席へ着くように述べて仕事に取りかかる。型通りの質問をされ、シピは答えた。


「氏名は」

「シピ・イェレ・レヘヴォネン」

「年齢は」

「二十」

「どこから来たんだ」

「出身地という意味なら、スニシオ。……所属、というならば。タイヴァスだ」


 シピが述べた事柄を書き留めつつ、男はその言葉に手を止めた。そして、いかにも胡散臭そうにシピを眺める。


「うん? タイヴァンキから来たってことか?」

「場所ならばそうだろう。わたしは、二年ほど前まで、タイヴァスにいた」


 男はじっとシピの顔を見る。そして、なにを納得したかうなずき、言った。


「汚れちゃいるが、タイヴァス出だって騙るのがわかる程度には整っているな。わかった、じゃあ別室行きだ。確認を取ろう」


 連れて行かれたのは二階の狭い部屋だ。なんの説明もなく置いていかれ、シピは窓から外を眺めた。

 関所の列は幾重にもなってとぐろを巻いている。シピがここへたどり着いたのは朝の早い時間であったため、それほど待たされることはなかった。だが、最後尾の人は市外で夜明かしではないだろうかと思う人数だ。

 交易の街だろうか。であれば、もしかしたらウルスラに再会できるだろうか。迷惑をかけるつもりはないが、できることなら世話人へ、オネルヴァの父へ、子ができたことを伝えたい。記憶にある地名をつらつらと思い出しながら、ここがどこの街かを考える。

 そして、退屈することもなく人々を眺めて過ごし、オネルヴァはどうしているかと考えていたころ。日差しの角度が変わり、昼をいくらか過ぎたころだとわかる。扉が叩かれ、返事をする間もなく開かれた。


 扉を開けたそのままの姿で戸口に固まった茶色の髪の男と、じっと見つめ合う。気詰まりな時間がいくらか過ぎてシピが口を開きかけたときに、男は歓声をあげて言った。


「いちーーーーー! 一だ、一じゃないか! 生きていたのか、本物か! うわー、一だ!」


 飛びかかるように抱きつかれて、シピは倒れそうになり脚を踏みしめる。そのときに、相手がだれだかわかった。


「……三、か?」

「そうだよ、三だよ! ヴィエノ・ヤリ・スオマライネンっていうかっこいい本名がある! 本当に一だ! よかった、よかった!」


 役が終わった後の進路を考えていないと悩んでいた、神の足仲間だ。瞬間、なにもかも知らなかったころの幼い自分に戻った気がして、シピは気持ちが軽くなった。


「どうしてたんだよ今まで! なんでここにいるんだよ! ていうか病気はどうなったんだ、治ったのか? なんでそんなにきったないんだ?」

「すまない、ひとつずつ答えよう。その前に教えてくれ」


 シピが言うと、三……ヴィエノはすっと真剣な表情になって傾聴する。


「おまえは、息災だったか。――元気だったか?」


 ヴィエノは快活に笑った。


「もちろん、ご覧の通り元気だよ。さあ、積もる話をしようか。その前に私の家へ行って風呂だな。臭いぞおまえ」

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