第五十一話 宝物
最初のときを思い出す。小さな窓の中にいる、オネルヴァを訪ねたときのことを。
シピはオネルヴァの名を呼んだ。オネルヴァもシピの名を呼んだ。
あの瞬間、この世にはただ二人だけだった。とても単純で、とても複雑で、深い感情がシピを支配した。
今ははっきりとそれがなにかを理解している。シピは、オネルヴァを恋している。
神の足として十年。そこから逸脱して二年。もしもう一度同じ人生を歩めるとしたら、やはりシピはあの日、あの窓を訪れる。もう一度。何度でも。オネルヴァと出会うために。
そして問いかけて、やはり連れ出すだろう。何度でも恋に落ちるだろう。だからなにも後悔はない。
とても晴れていて、心地よい風が吹く日だった。シルタの人々がオネルヴァの保護に全面的な協力を約束してくれてから、シピはオネルヴァとの短い時間を、よく庭で過ごしている。村の人たちが二人のことを見ていることもある。きっと噂になっているだろう。もしかしたらそれが保護申請の審査に影響するかもしれないとの懸念はある。けれどきっと、アノ医師やマリッカ女史が、どうにかしてくれる。
わずかな時間が惜しくて、シピはそう信じることにしている。
「これは、草です」
「これは、花だよ、オネルヴァ」
「これは、花です」
「うん、そっちは草かな」
ケシュキタロの爺や婆と過ごした長い夜の冬は、こうして目にたのしい変化はあまりなかった。なのでオネルヴァの好奇心はもっぱら婆がしている家事などで、よく動きを真似て手間を増やしていたものだ。
こちらに来て、もう少しで四カ月が経とうとしている。最初のうちは具合いが悪くて臥せっていることが多かった。だが、今はオネルヴァのお腹はしっかりと膨らみ、服の上からでもすぐにわかる。体調も安定してきた。よって、学ぶ意欲もそれに比例し、オネルヴァは以前よりも話すようになった。
子は定期的にオネルヴァを蹴り、驚かせている。そのことからも、男の子ではないだろうかとシピは思う。きっと、オネルヴァに似たかわいらしい子だ。
オネルヴァは自分の瞳の色にも似た小さな蒼い蝶を、捕まえようとして、失敗した。そのなぜかわからないといった驚きの表情に、シピは笑ってしまう。
ほほ笑んだまま、シピはオネルヴァに、言った。
決意が揺らぐ前に、言おうと決めた。
「オネルヴァ。話があります」
驚いた顔のまま、オネルヴァはシピを見る。シピもオネルヴァを見る。どの表情も、どの言葉も、すべて記憶に刻みつけておこうと思う。
なにかを感じ取ったのか、オネルヴァはシピをじっと見た。その手を取って木陰に行き、ともに座る。
「……なにから話そうかな。ずっと考えていたのに、わすれてしまった」
座ってから、正直にシピは言った。たくさん言葉を考えたはずだ。たくさん心で復唱したはずだ。オネルヴァにも伝わりやすい言い方を、たくさん。
しばらく二人で黙っていた。夏の日差しに、少しだけ秋風が交ざる。野鳥が歌を披露している。蜂が飛び回って花の受粉を手助けしている。今このときを、切り取ってずっと持っておければいいのに。
オネルヴァはシピの顔をなでた。涙を拭うような仕草だった。シピは小さく、泣いていないよ、と笑った。
「オネルヴァ。――あなたの保護申請の、審査が始まった」
結局言葉など選べなくて、シピはありのままの思いを述べる。オネルヴァは少し首を傾いで、シピの言葉の先を待つ。深く息を吸って、吐いて、シピはゆっくりと伝える。
「もうすぐ、審査官がやって来る。あなたの状況を見て、判断するために。あなたは、この地域では未成年者の扱いだ。なので、身寄りがなく、保護者もいなければ、すぐに審査に通るだろう」
シピの言わんとすることがわからないのだろう。オネルヴァはさらに首を傾いだ。その瞳は真っ直ぐに澄んでいて、シピを疑うこともない。腹の子のためとはいえ、これまでオネルヴァの意志とは無関係に物事を運んできてしまったことを申し訳なく思う。けれど……他にどうしようもなかった。
「私は、十八をふたつも越えている。未成年としては扱ってもらえない。そして、私はあなたをタイヴァスから拐って来た。タイヴァスから追われる身だ」
驚いた表情。このことについてこれまで、あらためて話し合ったことはない。なのでとても重要な話なのだとわかったらしく、オネルヴァは両手でシピの服をつかんだ。
「――私は、保護してもらえない。逃亡者だから。そして――あなたの保護に、私は邪魔になる」
そこまで言って、声に詰まった。決定的な言葉を口にできなかった。オネルヴァの顔を見ることができなくて、シピはうつむく。
何拍かの、沈黙。蜂がやって来て、重い空気を感じて逃げる。
か細い声だった。
「……だめ」
オネルヴァがつぶやいた。シピはそちらを向けない。両手でつかんだ服を引いて、オネルヴァはシピを自分に向かせようとする。シピは顔を上げオネルヴァをまともに見た。彼女は必死な表情で、シピにしがみついている。
「だめ!」
言えなかったシピの言葉を、オネルヴァははっきりと理解した。けれど言わなければと思う。彼女の賢さに甘えて、逃げるような卑怯で無様な人間ではありたくない。シピは口を開いた。
「……私は、ここを去る」
「……だめ!」
「あなたの保護には、それが必要なんだ」
「だめー!」
オネルヴァは両手でシピの口を塞ぐ。指先から昼に食べたカラクッコの匂いがする。シピは彼女を抱き寄せたが、抵抗に遭う。オネルヴァは立ち上がって、シピを見下ろした。
「だめ! 保護はいらない! シピはいっしょにいます!」
「……いられないんだ」
「だめー!」
オネルヴァは振り返って、あちらこちらと視線を泳がせた。不安げなそのしぐさに、シピは泣きそうになる。走り出してシルタの事務所家屋へ向かう。転びやしないかと不安になる。シピもすぐにそれを追った。
オネルヴァは真っ直ぐに事務所部屋へ向かった。そこにはマリッカ女史と、逗留している男女がひとりづつ。部屋に駆け込むなり、シピが追いついて止める間もなく、オネルヴァはひと息の後に叫んだ。
「だめ! 保護はいらない! です! やめるので、シピはいっしょにいます!」
視界が涙でにじむ。背後からオネルヴァを抱きしめる。状況を察した彼らは、言葉なく席から立ち上がる。オネルヴァは肩で息をしながら、何度も同じことを言う。
「オネルヴァ。オネルヴァ。あなたと、子を守るのだ。そのために私は行く」
「だめ! ……だめー!」
腕の中で振り返り、シピの首にしがみつく。絶対に離さないという意志をそこに感じる。オネルヴァは泣いている。シピも堪えられずに泣いている。どんなに言葉を尽くしてでも説得するつもりだったけれど、いざとなれば、なにも言えない。
マリッカ女史が差し伸べようとした手を、下ろした。騒ぎを聞きつけたアノ医師の気配を背後に感じる。何度もカラクッコを焼いてくれた女性が、視界の端で泣いている。男性は目を伏せて悔しそうだ。
ただオネルヴァの否定の声だけが響く。シピはその背をなでてなだめる。
アノ医師が、言葉を発した。
「……お母さん。あなたは元気な子を産まなければならないんだよ。お父さんはね、それをあんたと同じくらいたのしみにしているんだ。お父さんだからね。お父さんとしての、責任を果たそうとしているんだ」
「だめ! いらないです! わたしがカラクッコを作ります。保護はいらないです! シピはいっしょにいます!」
「審査官がこちらへ向かっているんだ。そのときにもし、お父さんがいっしょにいたら、あんたたちはいっしょにタイヴァンキへ送還されてしまう。……私らがお父さんをかばったら、内政干渉になってしまうんだ」
泣きながらでも、オネルヴァはその言葉を聞いていた。そして鼻をすすり、その意味を理解したときにシピの腕をつかんで引いて行く。
二人が寝室として用いている部屋に来ると、オネルヴァはシピを寝台に押しつけた。そして掛布をあるだけ巻きつけ、枕も乗せ、冬の襟巻きまで取り出して乗せ、シピをそこに隠そうとする。
シピはされるがままになっていた。どう説得し、どう納得させようかとまとまらない頭で考える。けれど、最後にオネルヴァが持ち出してシピの顔にかぶせた物がなにかわかったとき、驚いて。
そして――嗚咽がもれた。
言いようのない、満たされた気持ちになる。布越しに抱きついて来るオネルヴァを、布と枕越しに抱きしめる。
それは、タイヴァスからの唯一の持ち物……オネルヴァの父である世話人からもらった、外套。
だれになんと言われても、決してオネルヴァが手放さなかった――宝物。
なにも言えなかった。
なにも言えなかった。
酸欠で苦しくて、首を動かして空気を探した。胸一杯に呼吸をする。オネルヴァはずっと鼻をすすって泣き咽いでいる。シピも似たようなものだ。似た者夫婦だ。
ただ、伝えたくて。同じ気持ちだと。ずっと、オネルヴァと同じ気持ちだと。
今シピの腕の中には、オネルヴァと。
シピの子がいる。
「……愛しているよ。オネルヴァ。これまでも。――これからも。ずっと」
オネルヴァが大きく息をついた。言葉ではない声をあげる。それは紛れもない慟哭で、震える喉で静かにシピも同調した。




