第五十話 役目
手続き上で必要な文書は、問題なく作成された。庭に白く小さな花をうつむかせたキエロがいっせいに咲くころで、とても美しかった。長い冬は終わって、明るい季節がやってくる。
最終確認でシピがその書を読んでいたとき、アノ医師はじっとシピを見て静かに尋ねる。
「本当に、いいのかい。お父さん」
シピはその言葉を受けて笑う。とてもおかしなことだと思う。アノ医師へ視線を返して、シピはその言葉に答えた。
「アノ先生が教えてくれたのではないか。――私は、お父さんだ。だから、行くよ」
アノ医師は目を見開いた。
そして何拍か後に目を伏せ、そうだな、とつぶやく。
申請書の中でオネルヴァは国籍不明の未成年者として定義付けられた。それによって保護を受けるためだ。まして彼女は妊娠している。そして言葉遣いがまだ未熟な点も、この度は説得材料として大きく影響する。
速やかに行政へと提出されたその文書については、オネルヴァのお腹が目立ち始めるころには、いくらかの進展があるだろう。
そのときに、シピはひとりで、タイヴァンキへ戻ると決めた。
囲炉裏の部屋の前に行くと、オネルヴァの声が聞こえる。もらった子ども向けの書物に合わせて、発音の練習をしている。
最近は語彙が増えて、接続詞の使い方もずっと上手くなった。きっと腹の子はおしゃべりな子になるだろうと、マリッカ女史が笑っていた。
オネルヴァは「わたし」という言葉をもようやく理解した。ずっと、シピを含め多くの人が自分を「わたし」と述べることのが意味がわかっていなかったようだ。おそらく『わたし』という名の人物が多くいるのだと考えていたのだろう。もしかしたら、シピの正式な名前も『シピ・わたし』だと思っていたのかもしれない。そんな細々とした勘違いや言い間違いを、愛しく思うやさしい時間が続く。
努めてこれまでと同じように接しているつもりだ。けれど、オネルヴァはとても敏い。シピの中でなにかが変わったことを察しているようで、姿をみせると、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。傍らに座っても、頬に触れてもなにも言わない。それに甘えて、シピは彼女を抱きしめる。
シルタの人々は、その時間を尊重してくれている。ありがたいと心から思う。
オネルヴァには、ちゃんと説明して去ろうと思っている。騙し討ちのようなことはしない。アノ医師へ相談したとき、安定期に入ってから話すのが適切だと何度も念を押された。もちろん、シピも子の滑りなど望んでいない。けれど、ずっとオネルヴァを騙し続けているようで、心が傾ぐ。
すぐにでも産まれてきてくれればいいのに。そうすれば、オネルヴァと、子と、三人の時間を持てるのに。けれど現実はそれほどシピにはやさしくなくて、父として歓ぶことは許されない。
オネルヴァはよくカラクッコを食べたがった。それは、シピとともにウルスラに連れられて、細く急な階段の部屋で口にしたものだ。あのときは、半分も食べられなかったのに。
タイヴァンキでは家庭料理として定番の惣菜パンだ。麦粉を練ったものに味付けした小さな白身魚を何匹も詰め込んで成形し、堅焼きのルイスレイパにする。それを一晩以上熟成させ、輪切りにして食べる。
シルタの成員のうち、実家でよく作っていたと述べた女性が、試行錯誤し何度も焼いてくれた。都度いくらか味は違ったが、オネルヴァはそればかりを欲してよく食べた。きっと子が求めているのだろうと、シピは思う。自分もそれが好きだから、似た子なのかもしれないと思うと、心がくすぐられる。
名前はなにがいいだろう。そう考えるのは、とてもたのしい時間だった。いくつも考えて、オネルヴァにも書き出したそれらを見せる。すると、彼女はとても難しい表情になり首を傾いだ。そして、いくつかの候補を指差す。
なにもかもが美しかった。季節も、人々も、オネルヴァも。シピはたくさん笑った。とても幸せで。夢のようで。でもいつも覚めていて、この時が終わることを知っている。
子の名前は、男の子であれば、ヴァロ。これは『光』という意味だ。
女の子であれば、トイヴァ。これは『希望』という意味。
光であり、希望だから。シピとオネルヴァにとって、この子はそのようなものだから。
便りが届いたのは、カネルヴァが咲き始めたころ。赤みがかった紫の小さな花弁が群生して立ち昇る、可憐ながら強い花。オネルヴァと並んでその花を眺めながら、もしかしてオネルヴァの父である世話人は、そこから娘を名付けたのではないか、と話したりもした。オネルヴァは長く考え込んで、いくらか摘んで、部屋に飾る。
オネルヴァは、よく腹を気にする素振りを見せている。子が動くらしい。そのたびにシピへ報告に来るものだから、シピも触れて胎動を知っている。これはきっと、元気でやんちゃな子になるだろうと思う。触れた手を通して、心でシピは語りかける。
愛しているよ。心から。
だから私を、恨まないでほしい。いや――
恨んでもいい。蔑んでも、罵ってもいい。
ただ、まっすぐに育って、幸せになってくれ。
それだけだ。
届いた便りは、シピにとって、心底安堵できるものだ。
オネルヴァの保護申請の審査が始まったのだ。しかるべき後に、難民を取り扱う出入国管理庁から人がやって来る。
よって、ここで終わった。
シピの役目は、これで、終わり。
保護申請(人道的庇護・未成年者保護適用)
書類番号:附庇1372=5
提出日:レンド暦862年5月按の日
提出先:出入国管理庁
申請形式:補助代理申請(未成年当事者に代わって提出)
【申請者(補助申請代理人)】
氏名:アノ・ニコデムス・アハティアラ
生年月日:レンド暦800年4月氷の日
職業:医師(ヴァパウス・ヤ・ホイヴァ・シルタ所属)
所在地:ヴァルタル州第一保護区域(指定避難医療施設)
申請資格:未成年者の保護に関する緊急的措置の補助代理人
【保護対象者】
氏名:オネルヴァ(姓不明)
生年月日:不明(推定年齢16歳)
出身:不明
現在地:ヴァルタル州第一保護区域(指定避難医療施設)
特記:妊娠中(妊娠第2カ月)/医療機関による診断記録あり
【申請目的】
上記未成年者および胎児に対して、下記の理由により人道的庇護ならびに国際保護基準に基づく緊急的保護措置を求める。
一、保護対象者は法的身分証を有しておらず、出身地も不明であり、いかなる国家の法的保護下にもない状態にある。
二、当人は医療機関の診断により妊娠が確認されており、胎児および母体ともに継続的かつ安定的な医療的管理を要する状況にある。
三、当人は言語能力が未発達であり、意思疎通が限定的であるため、特別な支援体制が必要とされる。
四、本人の自発的意思に基づく避難行動が確認されており、代理申請者を含む第三者による強要または誘導の事実は認められない。
五、当該未成年者が必要とする保護・支援の内容は、人権規定および児童保護に関する条約上の義務に明確に該当するものである。
【添付書類】
医療機関による診断書(胎児および母体の健康状況に関する報告)
医師による特記事項報告書(聞き取りに基づく生活歴の概要を含む)
支援団体『ヴァパウス・ヤ・ホイヴァ・シルタ』による支援証明書
【特記事項】
本申請は、保護対象者の年齢、健康状態、ならびに無国籍の可能性を踏まえ、純粋に人道的見地からの緊急救済措置として提出されるものである。政治的、宗教的、あるいは国家主権に関わる意図は一切含まれていない。
提出者署名:アノ・ニコデムス・アハティアラ
支援団体名:ヴァパウス・ヤ・ホイヴァ・シルタ
医療機関名:デース診療部隊第二班




