第四十八話 囲炉裏
しばらくの日数の間シピへの、マリッカ女史またアノ医師での聞き取り調査が繰り返された。ただし、シピの姿が見えなくなるとオネルヴァが不安がるため、彼女が眠っているときか、あるいは距離を置いて同じ部屋で行われた。
オネルヴァにも穏やかな態度で何度か会話を試みていたが、決して他者と打ち解けようとはしない頑なさが彼女にある。以前はこれほどまで人見知りが激しくはなかったので、もしかしたら妊娠が関係しているのだろうか。アノ医師へそれとなくそう告げると、そうかもしれないと肯定が返って来た。
ときおりマリッカ女史とアノ医師は、二人で小声にて話し込んでいる。それは廊下での立ち話でもあるし、庭を散策しながらの様子もあった。シピと目が合うと二人とも心配をかけないようにほほ笑んで解散するが、それまでの空気は真剣なものだ。
マリッカ女史とともに来たシルタの成員の幾人かは、特命を受けてどこかへ向かったようだ。残った人員は村医者に請われてにわかの青空診療所を開いている。シルタはどこの土地でも有名で、篤志家たちの寄付で多くの土地で無償の医療行為を成していることは広く知られている。シピとオネルヴァのことは内密にされており、最初から現地への医療支援のためにやって来た体を装っているらしい。
高度な医療は、まだまだ都市部での贅沢品だ。現在はどの国の農村部でも民間伝承による治療が横行しており、こうして最新の医療技術を持った人物から診察を受けられる機会などほとんどないのだろう。腰の曲がった老婆から、どこが悪いのかわからない元気な子どもまで、朝から列をなしていた。窓から見えるその様子を、シピはオネルヴァとともに飽きもせずずっと眺めている。
その列を見ていて、なにか読み物を借りられないかと、アノ医師に尋ねてみた。妊娠や妊婦にまつわる医学的なものなら、なおいい。それはそれはにこやかに応じてくれたが、さすがに妊婦に特化した書物はこの村にはないということだ。そのため、わざわざ国境警備基地にあるアノ医師の私物を取りに行ってくれた。次の日に戻ってきて手渡された分厚い書物は、すべての頁に何度もめくられた痕跡があり、使い込まれた様子の一冊だった。
シピが卓に向かってその書物を読み始めると、オネルヴァも椅子を寄せて座り覗き込む。妊婦に関する書物ではなく、医療全般、人体に関わる内容のようだ。目次だけでも読み応えがあり、オネルヴァとどこから読んで行くか相談した。やはり、ともに最初は妊娠に関する項目を読みたいと希望する。
オネルヴァは、文字を読み上げることができない。文章や単語の意味は理解できるが、文字の読み方を知らないためだ。よってまずはざっとシピが目を通し、最初の項目から一文ずつ音読して行く。オネルヴァがそれを真似て声に出す。意味を取り違えてないか確認する。その繰り返し。
オネルヴァには学ぶ意欲がある。知識が増えることへの切望と心躍る感覚は、シピもよく知るところなので根気強く付き合う。依然無表情気味なことは否めないが、それでも未知へ理解を得る過程は彼女の瞳を輝かせる。つぎ、つぎ、と乞われるが、無理をさせたくはないので休みを取りつつ進める。
妊娠の項目でシピもオネルヴァもとりわけ注目したのは、現在のオネルヴァの妊娠月の内容だ。それは短い記述だが、互いに顔を見合わせる程度には警告となるものだ。
『初期(1ないし3カ月):子が宿ったばかりの時期。子の滑りの危険が高く、母は重労働を避ける。 』
恐ろしい表現だ。目次に戻って『子の滑り』について調べる。シピは読み上げなかったが、字面でオネルヴァは理解したようだった。目を見開いてじっと書物を見ている。
『子の滑り:すなわち、胎内に宿った子が時ならずして失われること。深い悲嘆をもたらす。避けたければ以下の心得を守り、子の安泰を願うこと。
一、心身の安静
妊娠の初期(1ないし3カ月)は、子が宿る最も重要な時期。過度の労働、乗馬、跳躍、踊り、ならびに夫との親密な交わりを避けるべし。咳やくしゃみ、重い荷の持ち上げ、怒りや悲しみなどの強い感情も、子を揺らし滑り落とす恐れあり。母は穏やかな心を保ち、囲炉裏のそばで休息を取ることを勧める。』
オネルヴァは震えた。それがシピにも伝わり、シピは彼女を見る。するとオネルヴァは信じられないものを見るような瞳でシピを見ており、驚いてシピも見返す。彼女は椅子から立ち上がり、歩いて部屋を出る。これまで彼女が自分からそのように行動したことはなかったので、シピは思わず名前を呼び、その背を追った。
「おや、どうしたい。お父さんにお母さんよ」
「シピはだめ! いろり!」
廊下で行き合ったアノ医師が尋ねると、オネルヴァはそう声をあげた。真っ向から否定されてシピは面食らう。近づこうとすると一歩退き、また一歩近づくと逃げようとするので、シピは助けを求めてアノ医師を見る。
「どうしたんだい、あんたたち」
「……どうやら書物の内容を文字通りに解釈してしまったようだ」
シピが説明すると、アノ医師はふしぎそうな顔で見返してくる。部屋から書物を持ってきて先ほどの文章を読ませると、アノ医師は呵呵と大笑した。笑いすぎて涙目になり、彼は言う。
「そうか、そうか。囲炉裏の部屋へ案内しような、お母さん。昼間はそこで休んで、夜は寝台で寝よう。そしてシピは遠くにやっておこう」
オネルヴァは力強くうなずいた。シピはうなだれた。
子の滑り:すなわち、胎内に宿った子が時ならずして失われること。深い悲嘆をもたらす。避けたければ以下の心得を守り、子の安泰を願うこと。
一、心身の安静
妊娠の初期(1ないし3カ月)は、子が宿る最も重要な時期。過度の労働、乗馬、跳躍、踊り、ならびに夫との親密な交わりを避けるべし。咳やくしゃみ、重い荷の持ち上げ、怒りや悲しみなどの強い感情も、子を揺らし滑り落とす恐れあり。母は穏やかな心を保ち、囲炉裏のそばで休息を取ることを勧める。
二、滋養ある食事と薬草
子を強く育むため、温かく滋養ある食事を心がけるべし。ルイスレイパ、温めたヘルネケイット、蜂蜜を加えた粥は、母体を温め、子を支える。薬草では、ロスマリーニの煎じ薬が子宮を強くし、子の定着を助く。サルヴィアの葉を少量、湯に浸し飲むもよし。村の賢女は、赤い珊瑚の粉やムスコッティパフキナを白葡萄酒に混ぜ、胎の血を穏やかに保つ薬として与える。また、蒸気浴の後にカモミッラの湯を飲み、身体を温めるは良策なり。ただし、タンシーや過多のサルヴィアは子を害する恐れあり、助産婦の指導なく用いるべからず。
三、蒸気浴と身体の温め
蒸気浴は、母の血を巡らせ、胎を温める。妊娠の初期および中期に、穏やかな温浴を週に一度行うべし。冷水や冷たい風に当たるは子を弱らせ、子の滑りを招く故、身体を冷やすことなかれ。蒸気浴の後、羊毛の布で腹を包み、休息を取るは子の健やかな成長を助く。
四、助産婦との相談
子の滑りの兆候、すなわち腹の痛み、血の流れ、子の動きの欠如を感じし時は、速やかに助産婦を呼び、助言を乞うべし。彼女は脈の動き、尿の色、腹の触診により子の状態を見極め、適切なる薬草を施す。
五、心得と禁忌
冷たい水や生の果物を過度に摂るべからず、胎を冷やす恐れあり。
(注:本項目は架空の医療辞典を想定し作成。現代において適用不可な内容もあり。真に受けないでください)




