第四話 隠し事
シピは、自分がどうかしてしまったと思う。絶えず姫神子のことを考えている。そして、彼女がまさしく人間であり、オネルヴァ・リューリ・ケスキタロという名を持つ存在だと知り、息が詰まった。ずっと――心が震えている。
気づけば、その名を舌の上で転がしていた。はっとして、慌てて口をつぐむ。呼びたい。その名を。
あの、まっすぐにシピを見据えた蒼碧の瞳。小さな鼻。物問いたげに少しだけ開いた赤い唇。
美しい、あの存在を名で呼びたい。
けれど、その衝動を抑え込む。
だれが、あの美しい人に、その名を授けたのか。
禁書庫で見た記録には、タイヴァスで生まれた姫神子に名が付されることもあった事実が記されていた。だがそれは稀で、多くの場合彼女たちは数字だけで記録される。
名を持つ姫神子は、ずっと人だった? ならば、数字の姫神子たちは?
――彼女たちは、人ではなかったのか?
その考えは空しいものだった。シピは自分の心を慰めるためそう考えたにすぎない。名が残されていようと、数字であろうと――彼女たちを一律で『人ではないもの』として扱ってきたことへの、悔恨がそう思わせる。
おそらく――姫神子は、いつの時代も人であった。
ずっと、ずっと、考えている。寝るときも、起きるときも。歩くときも、走るときも。
様子がおかしいことは、すぐに他の足たちに知れた。だが、シピは上手い言い訳もできず、ただあいまいに笑った。
そして――また、御輿を担ぐときが来た。
平常心でいられない。
先頭に立ち、担ぐ御輿の中には――あの白い手の、美しい人がいる。
けれど、どんな体調のときも、どんな気分のときも、シピは表情を動かさずにこれまで役を果たしてきたのだ。だから、心にこぼれ落ちそうな熱を抱えていても、きっと問題なくこなせるはずだった。
行程はいつも通り。歩く道も前回と同じ。
他の足たちと御輿の部屋へ向かう。この、襟高の祭儀衣を着ると、だれもが口を閉ざして意識を役目に集中させる。けれど、このたびは違った。
「一、だいじょうぶなのか」
一番年長の、金髪で美しい青い瞳の『二』がシピへとそう尋ねた。シピも、他の足の歩みも止まり、視線が二とシピへ集まる。
シピは心を見透かされていると思う。きっと、この熱が漏れ出してしまったのだと感じる。焦りと、けれどどこか突き放して自分を見ているシピの中のシピが、黙れ、なにも語るなと忠告する。
「なにが? 体調は悪くないよ」
「そうだろうか。よくは見えない」
いくらかシピはほっとした。シピの浮足立った様子は、体調不良ゆえだと思ってもらえているらしい。なのでシピは無表情を作ったまま「問題ないよ」と言った。
「これまでも、そうだった。どんなときでも担ぐのみだ」
「それはそうなのだが」
二はいつでもこうして、他の足たちへ兄のように接してくれる。常ならばその気遣いをうれしく思うのだが、今はただ、見透かされやしないかと恐ろしい。
シピは無理に笑顔を作って、自分でも空々しいしかたで言った。
「――疲れてはいるのかもしれない。だから、今日は役を終えたらすぐに休むよ」
「それがいい。我々は、倒れるわけにはいかないのだから」
シピたち足に、代わりはいない。過去には事故で亡くなり代役が立てられたこともあると聞いた。しかし、シピたちは幼いころから互いに話し合い、たとえだれかが欠けようとも残った者たちで役を果たすと決めていた。彼らの代わりは、どこにもいない。新しい誰かでは、埋められない。
親兄弟よりも、ともに過ごした時間が長いのだ。シピたちの間にある親愛の情は、だれか他の者で事済むような関係ではない。
御輿の間へとつづく渡り廊下をまた歩みながら、シピは泣きそうな気持ちになる。
――生まれて初めて、隠し事をした。なによりもだれよりも、親しき人たちへ。
心から愛している。まるで自分の身であるかのように。この絆をなにかが断ち得ることはないと思っていた。
けれど、シピ自身がそれを壊そうとしている。それが悲しい。そして。
それだけ思っても、シピは彼らの名を知らず、それを呼ぶこともできぬのだ。
シピたちの間にあるのは数字のみ。ただの識別番号だ。――なにも、なにも疑問に思わなかった。これまでは。
その事実が、シピが作った役のための無表情を、さらに凍らせる。