第三十六話 手紙
連れてこられた場所に、シピは驚きを覚える。壁板の隙間から風が吹き抜けそうな、煤けた木造の平屋だった。冬を越せるのか不安に思うほど。一応は怪我人とその夫を装っているので、シピはオネルヴァを抱いて中へ入る。
開け放たれた家の戸をくぐった途端、血と油と樹皮のにおいが強く鼻を突く。そして腐臭も。シピにしがみついていたオネルヴァは、びくりとして両手で鼻を押さえる。それはとても失礼な態度だとは思ったが、シピはどう咎めればいいのかわからない。実際に、臭いのだ。この生々しい匂いはなにかと記憶を探る。祭りの仮設街で嗅いだ――これは、獣の匂いだ。
家の中は、古ぼけているがそれでも存外片付いてはいる。オネルヴァをその場に立たせ、シピが室内に目を走らせていると、奥の続き間から老女が姿を現した。その瞳はシピへ向けられ、そしてすぐに隣りの鼻を押さえたオネルヴァへ。じっと、老女はじっとオネルヴァを見る。
「……顔が見えないよ。あの子に似ているのかい」
独白のような低い声。シピはあわてて、オネルヴァの手を顔から離させた。驚愕したように目を見張りオネルヴァはシピを見る。それから老女を見た。
二人は互いにじっと見つめ合っている。しばらくの後に、その様子を見守っていたウルスラが、戸口から声をあげた。
「そっくりだろ。目元なんか、とくに」
「……こっちにおいで」
ウルスラの言葉には答えず、老女は奥の間へと向かう。シピはそれに続こうとしたが、オネルヴァが渋って進まない。なだめて、どうにか二人で中へ入る。
そこには、獣の墓標とでも言うべき光景が広がっていた。部屋中に張り巡らされた縄紐。それに吊るされ、干されている皮。燻しているのか、烟るような香りもある。家全体の異臭の元は、これなのだ。
老女はシピたちの姿を見ると、さらに部屋の奥へと進む。おどろおどろしい縦長の部屋を進んでいくと、作業場と思しきところに出る。
そこには体の大きな老人が、背中を丸めて机に向かっている。その手には両端に柄のある特殊な刃があり、彼はそれを用いて目の前に置いた皮をこそいでいた。
「あんた。あの子の娘だよ」
そっけない言葉で老女がそう言う。ゆっくりと作業の手を止めて、老人はシピたちへ視線を走らせる。まずはシピへ。そして、オネルヴァへ。
言葉はなかった。シピは鼻が麻痺してきたようで、けれど自分の呼吸すらも臭く感じる。オネルヴァはシピの顔色を窺ってから、また鼻を押さえた。
「……納屋しかない。奥だ」
一拍置き、ふうとため息をつくと、老人はまた黙って皮をこそぎ始めた。老女がその言葉を受けて、シピたちをさらに奥へと促す。シピがそれに続こうとすると、肩をつかまれて止められた。
「シピ、あんたに渡しておくから。受け取ってくんなかったからさ」
ウルスラから手渡されたのは手紙だ。内容を確認する間もなくウルスラは踵を返す。シピはあわてた。
「ウルスラ、私たちは、どうすれば」
「どうもこうも、こちらのケシュキタロ夫妻に、お世話になんな。せめて一冬ね。その後は知らない。自分で考えな」
「帰るのか?」
「もちろん。余所モンが長く滞在する場所じゃないだろ。あんたたちの足がつかないようにするにも、あたしは居ちゃならんしね。じゃあね、元気で」
本当に商隊へ戻る様子に、シピはどうすればいいかわからず思ったことを去っていく背に告げた。
「ありがとう、ウルスラ」
足が一瞬止まり、彼女はなにか言いたげに振り返る。じっとシピとオネルヴァを見る。何拍かの後に笑って、そのままウルスラは去って行った。
老女はシピたちのやり取りを眺め、それが終わるとまた奥へと促す。鼻を押さえたままのオネルヴァの背を押して、シピはそれに続く。
作業場となっている家屋を裏口から出て、外へ。連れてこられた納屋は、なにに使うのかわからない器具であふれている。しかし獣皮そのものを保管していないので、多少匂いはましだった。中に入って息をついたシピとオネルヴァを見て、老女は言った。
「あっしら二人でも、食べてくのにやっとなんだよ。だから、もてなしは期待せんで。食事は一日に一回、夜だよ。布団なんて立派なもんはないから、藁と皮衣で我慢しいね」
そう言うと納屋を出ていこうとするので、シピは先ほどウルスラにしたように老女を呼び止めた。淡々としてはいるが嫌な素振りは示さないので、歓迎されずとも受け入れてはもらえているのだとシピは考える。
「すまない、私はシピ。こちらはオネルヴァ。どうかよろしくお願いいたします」
「さっきの姉さんから聞いたさ。その、あんたが受け取った手紙を読み上げてくれた。お嬢ちゃんの方が、あの子の娘なんだろう。似てなきゃ追い返そうと思ったけれどね。ここに住んでたころのあの子に、そっくりだよ」
オネルヴァをまたじっと見る。オネルヴァは臆することなくそれに視線を返す。老女が言うあの子とは、世話人のことだ。であれば、預かった手紙は世話人が書いたものだろうか。
老女が去った後、シピは藁床に座り込んで手紙を開く。吐く息が白いが、シピたちが来ると思ってか火鉢に新しい炭と火が入っている。オネルヴァもシピの隣りに来て、手紙を覗き込んだ。
『ケシュキタロのおじさん、おばさんへ』
手紙は、その言葉から始まっている。ケシュキタロ夫妻は、文字が読めないらしい。それを慮ってか、難しい言葉は使わず、子どもでも理解できる平易な文章で。
内容は、これまで手紙を書かなかったことへの後悔。そして、ずっと二人を気にかけていること。シピとオネルヴァを頼むということ。
『すべての恩を、心から感謝しています。
わたしは、あなたたちの子でした。
これからも、ずっと。
ラウリより』
自分に宛てられたものではないとはいえ、思わず涙ぐむくらいには感動的な、愛情に満ちた手紙だった。それだけに、ケシュキタロ夫妻がこれを受け取らなかったこと――それが、なぜなのかシピにはわからない。
ケシュキタロのおじさん、おばさんへ
お元気でしょうか。
このような形でお便りを差し上げるのは、はじめてです。
おふたりが字を読めないことは、昔から知っていました。
だから、これまで手紙を書くことはしませんでした。
けれど、それが正しかったのかどうか、いまは少し迷っています。
たとえだれかに読んでもらう形でも、わたしはもっと早く、
おふたりに言葉を届けるべきだったのかもしれません。
わたしは、いつもおふたりのことを気にかけていました。
タイヴァスへ来てからも、季節の風のなかに、おふたりの家のにおいを思い出すことがよくあります。
あのとき作って持たせてくださった皮の人形は、今もずっと手もとにあります。
目がこすれて、もう顔はわからないけれど、触ればちゃんとわかります。
おふたりの手のかたちです。
今日は、大事なお願いがあって、こうして筆を取りました。
わたしの娘のオネルヴァと、連れの子のシピを、しばらくのあいだ預かっていただきたいのです。
事情があり、わたしには今、この子たちを守ってやることができません。
けれど、だれよりも信じてお願いできるのは、おふたりしかいないと、思いました。
オネルヴァは、わたしに似て、口数が少なくて、少し気の強い子です。
シピはよく笑う、やさしい男の子です。
このふたりが、ほんの少しでも、あのころのわたしのように救われたなら、それだけで十分です。
いつか、また会える日が来ることを、心から願っています。
けれど、その時はまだ先です。
今は、ふり返るよりも、前を向かなくてはなりません。
どうか、どうかおふたりとも、
風邪などひかずに、お元気でいてください。
すべての恩を、心から感謝しています。
わたしは、あなたたちの子でした。
これからも、ずっと。
ラウリより




