第三十四話 覚悟
幌馬車と馬の限界に挑むような鞭の音が、空気を裂く。乗り心地など最悪の部類だ。オネルヴァは世話人の外衣を胸に抱きしめ、シピにしがみついている。シピは彼女を腕に抱えながら幌の骨をしっかりつかむ。ウルスラも同じく、御者席近くの柱にしがみついていた。普段落ち着いた彼女の顔に余裕はなく、それが今は非常事態だと物語っている。
細い街道を、北へ、東へ。また北へ。曲がり方でそう感じただけで、実際にはどうだったのかわからない。永遠にも思える時間を走った。ようやく減速したと感じたときには、すでに全身が強ばっていた。
「……あー、しんど。馬、替える。今日は野宿だけど我慢しなよ」
完全に停車したときに、ウルスラが肩を回しながら言う。シピは腕の中のオネルヴァを確認する。オネルヴァはじっと目を閉じていて、かすかに震えている。声を掛けると、ゆるゆると目を開けた。
「……だいじょうぶですか、オネルヴァ」
シピが出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。オネルヴァはしばらくシピを見上げたあと、ふいに身を乗り出して嘔吐した。
「あー。やっちまった。そりゃそうだね。とりあえず外に出よう」
シピの着ていた服は汚れてしまった。オネルヴァが大事にしている外衣が汚れなかったのは不幸中の幸いだ。
低く垂れ込めた雲が、山の稜線をゆっくりと這っていた。目に入る山峰には雪が白い冠となっている。街道だと思っていた道は、いつの間にか山中のあぜ道になっていた。裸になった梢へ風が鳴き、あたりはしんと静まり返っている。
御者が、馬車から二頭の馬を外した。そしてウルスラへ目配せするとどこかへと連れて去って行く。シピはどうしてそんなことをするのかわからず、服を脱ぎながらウルスラを見やった。ウルスラはオネルヴァへと皮袋の水を差し出しながら、シピの不安げな視線を受け止める。
「なにさ。聞きたいことはいっぱいあるだろうけど。言ってみな」
「どうして、馬を外すのだ?」
「さっき言っただろ。交換するんだよ。この近くに村がある。そこで違う馬をもらって来るんだ」
「なぜ?」
「もう限界まで走らせたからね。本当は丸一日かかるところを、四半日で駆け抜けたんだ。休ませなきゃ明日以降は使い物にならない。でも、そんな時間はない」
なるほど、と思う。馬も人間も休息が必要だ。それは当然だ。
オネルヴァは、馬車の車輪へ寄りかかって、ぼうっと外衣と皮袋を手に持っている。これまで御輿に乗って担がれることは数多くあったが、こんな乱暴な運転の馬車になど乗ったことはなかっただろう。それも当然と言えた。ある程度鍛えているシピでさえ、頭の奥に不快感がある。
ウルスラは自分にも皮袋を取り、そしてシピへもひとつ投げて寄越した。
「ここで野営。ヘイノが戻ってきたら食事にでもしようかね。なんか買ってきてくれるだろうよ。それまではまあ、横にでもなって休んでな」
「なにか、することはないだろうか?」
「おやあ? 気が利くようになったねえ。じゃあ薪になりそうなモンでも拾ってくれ」
動いている方が頭痛を自覚せずに済みそうだ。シピは言われるまま、周辺から枝を拾う。オネルヴァがじっとシピの姿を目で追っている。あまり遠くへ行かないようにしながら、一晩を過ごせそうなだけ木々を集めて行く。
祭りのために一週間と少しを過ごしたサルキヤルヴィから離れ、さらに冬を体感する気温だった。体を動かしていないオネルヴァはさぞかし寒いだろうと思い、振り返ると世話人の外衣を体へ巻きつけている。
かき集めた枝を組み合わせて、火打ち石で火を熾す。これはマンネから教わった技術のひとつで、あいさつのひとつもできなかった声なき彼について思う。本当に、たくさんのことを学び、世話になった。ウルスラがシピとオネルヴァへと宛てがってくれたのが、マンネでよかったと心底思う。
ウルスラが荷馬車の中から金物の片手鍋といくつかの器を取り出して来る。鍋へ皮袋から水を注ぎ、火にかける。煮えたぎってから茶葉を入れて下ろし、シピとオネルヴァへと茶を手渡してくれた。
オネルヴァの隣りに腰掛ける。オネルヴァは片手でシピの服をつかんだ。それに少しだけほっとする。ウルスラ自身も茶を口へ運びながら、彼女は不意にシピへと尋ねた。
「こわいかい?」
それは、シピの心を見透かした問いだ。
「……こわくないことにしたい」
シピはそう答えて、そっとオネルヴァの手を自分の手で包む。ここで強がりを言えるほど、シピは物を知らない。けれど、自分の物知らずを自覚できる程度にはわきまえてもいる。よって、そう答えるのがやっとだ。
風の音。野鳥の声。弾ける焚き火の音。耳に届くのはそれだけで、痛いほどの静けさがシピたちを取り囲んでいる。片手に持った器が熱い。もう一方の手で握ったオネルヴァの手が冷たい。暖めるようにぎゅっと握って、シピは自分たち――自分が置かれた状況を考える。
指名手配。その言葉が、ずっと耳の奥で反響している。
シピはあの冬の劇の青年エリが、ヤギの精霊を追って旅に出る場面を思い出す。
エリには、子どもたちの命を救うという願いがあった。けれどシピは、そうではない。オネルヴァをあの窓の中から救い出したいとは思った。姫神子という名、器という名に座らせたくないと思った。ひいてはそうすることが、オネルヴァのためだと思った。
そして、今はどうだろう。エリとは違い、シピ自身が追われる身だ。何度も考えた問いが、またその首をもたげる。――これで、よかったのだろうか。
御者の男性は無事に新しい馬を連れて戻って来た。馬の背には食料を詰めた袋。シピは彼にあいさつすべきかと思ったが、馴れ合いを望まない空気を感じたためにそれを控えた。
夜は、オネルヴァとウルスラが荷馬車の中で寝た。シピは自分から火の寝ず番を買って出た。男性は焚き火の脇で布に包まって横になる。それで眠れるとは思わないが、少しでも体を休めてもらわなければならない。
暗がりの中で馬が鼻を鳴らす。寒さに愚痴を言っているのかもしれない。シピも着込んだ外衣をさらに引き寄せて、この世にただひとりだけに思える今このときを耐え忍ぶ。男性が寝返りを打った。しばらくしてから、その瞳がシピをとらえていることに気づいた。
「足さんよ」
男性の声を聞くのはそれが初めてだった。弾ける薪の音に乗って、その低い声は寒い夜に響いた。
シピは、焚き火の向こうのその瞳を見る。何色かはわからない。けれど、真剣な色。
「――いい加減覚悟決めて、腹括れや。あんたが揺れてたら、お姫さんはどうすりゃいいんだよ」
端的で、言葉少なで、あまりにも核心を突いた問いかけだ。シピはなにも言えない。
男性は、またふいとシピへ背中を向けた。
シピは一晩中、揺れる炎を見ていた。




