第二十九話 祭り
祭りの朝は、存外に静かに始まった。荷馬車の中ではなく幕屋の絨毯の上で目が覚める。シピは一瞬周囲の景色に混乱したが、オネルヴァが掛布としている世話人の外衣が目に入ってすぐに気を取り直す。
幕屋ではマンネもともに過ごしている。なにかと世間に疎いシピとオネルヴァのお目付け役なのだ。だが、今朝は彼の姿が見えない。シピはそっと天幕の外に出る。
薄い朝の光が天幕を、そして急ごしらえの通路を照らしている。どこの幕屋でもなにかしら一日を始める動きがある。さわやかな空気を胸に吸い込んでシピが軽く屈伸をしていると、マンネが朝食を籠に入れて携えてきた。ルイスレイパと呼ばれる酸味のある黒パン。タイヴァスでも、ほとんど毎朝これだった。
発声ができないマンネに合わせ、自然とシピも言葉を発さない。しかし、一般社会での過ごし方や人付き合いのなんたるかを知らないシピにとって、静かなやりとりはむしろ気安い。オネルヴァとも適切な距離を保ち、必要以上に干渉しないマンネは、シピにとって理想的な隣人だった。ウルスラが彼をあてがったのも、きっとそのためだろう。
互いにうなずき合い、三人の幕屋へ戻る。
オネルヴァは、起こすのが忍びなくなるほどに深く眠っている。昨日の慣れない作業で、きっと気疲れしたのだろう。シピはマンネに、先に朝食を摂るよう促し、自らは湯を沸かして珈琲を淹れる。立ち上る香りに誘われるように、ようやくオネルヴァがまぶたを開いた。
「おはようございます、オネルヴァ」
「おはようございます、シピ」
あいさつは、すっかり朝の習慣になった。オネルヴァはまだ、ほとんど言葉を持たないが、それでもこのひと言を覚えたのは大きな進歩だ。真似事のような発音でも構わない。シピにとって、それは十分に意味あることだった。
オネルヴァは、声を出さずにマンネへも小さく会釈する。おそらく、人によってあいさつの仕方が違うと思っているのだろう。シピは苦笑しつつ、ルイスレイパにチーズを乗せたものを彼女に手渡した。飲み物は、好まない珈琲の代わりに白湯を用意する。
天幕の外では、次第に人の気配が増えてきた。がらがらと台車を引く音、呼びかける声、木製の棚を組む音。祭りの出店の準備を始めているのだろう。シピはゆっくりと咀嚼するオネルヴァを急かすことなく待っている。すると、マンネがふいに籠の中から何かを取り出し、シピに差し出した。
「……これは、なんだろう?」
「これは、なんだろう?」
シピの言葉をオネルヴァが口真似する。布に包まれていたのは、黒い仮面がふたつ。目元だけを覆う、簡素だがしっかりした作りのものだ。着けるべきかと尋ねると、マンネは力強くうなずいた。
わけもわからぬまま、仮面を耳にかけ、後頭部で紐を結ぶ。続けてマンネが帽子を取り出し、シピの頭にかぶせた。そして満足げに、深くうなずいてみせる。
「それ! それ!」
オネルヴァがシピと同じものを着用したいとせがむ。シピが先に食事を済ませるように促すと、真剣な様子でしっかりと咀嚼する。
食べ終わったオネルヴァに仮面をつけてやり、いつもかぶっている丸帽子をかぶせる。これなら、顔立ちもある程度は隠せるだろう。
次いで、マンネは籠から手紙を取り出してシピへと差し出した。ウルスラからだった。そこには、祭りの期間中は多忙で幕屋に立ち寄れないこと、すべてはマンネに任せてあることが綴られていた。
さらに、布袋に入ったいくらかの硬貨も添えられていた。
『幕屋張りの報酬だよ。本当はもっとあるけれど、祭りでは高額を持ち歩かない方がいい。お姫さんといっしょにたのしんでおいで。マンネは必ず連れて歩くこと』
手紙の末尾には、そう添えられていた。シピは驚きと共に、胸の奥がふわりと浮くような感覚を覚えた。
労働の対価を手にしたのは、これが生まれて初めてだ。
身を撫でる祭り前の空気が、どこか特別なものに感じられた。
「マンネ、私たちは、祭りというものに参加したことがない。しかも、これはケッキと呼ばれる大きなものだろう? どうか、よろしく導いてほしい」
改めてシピがそう言うと、マンネは驚いたように目を見張った。そして苦笑しながらもしっかりとうなずいてくれる。
タイヴァスを出てからというもの、シピは自分の無力を幾度も思い知らされてきた。だからこそ、こうしてそばで支えてくれる存在に、深く感謝している。マンネはウルスラ商会の従業員であり、シピたちの世話も仕事のうちなのかもしれない。だとしても、その価値は変わらない。
貴重品の類はなにもない。ただオネルヴァが放さない世話人の外衣があるだけだ。それをともに幕屋の奥へ隠して、マンネと連れ立って三人で幕屋を出る。
幕屋を出て十秒も歩けば、もう祭りの空気だ。シピはしっかりとオネルヴァの手を握り、オネルヴァはもう一方の手でシピの袖布を握る。たくさんの人の気配に、圧倒されそうになるのはシピも同じだった。けれどその仕草に、心がしゃんとした。しっかりしなければと思う。オネルヴァが頼るのは、ただひとりシピだけなのだから。
勝手知った様子で、マンネは通路を行く。シピとオネルヴァはそれに続く。見回すと、シピたちと同じような仮面を着けている人もちらほらといる。ケッキにはそうした習俗があるのだと、そういえば以前書物で読んだとシピは思い出した。
マンネは立ち止まり、シピたちの姿を確認して、遠くを指差した。それはサルキヤルヴィの市内へ入る門を差している。中へ行こうということなのだろう。シピはオネルヴァの手をぎゅっと握り、うなずいた。




