第二十六話 価値観
ウルスラが率いるシニサラマンの商隊は、シピとオネルヴァを乗せた荷馬車のほかにも、いくつもの馬車が連なって出発した。
その規模は、シピの想像を遥かに超えている。幌馬車、騎馬、徒歩で進む者たち。交易品を積んだ荷車に、鍋や乾いた洗濯物を吊るした家族の馬車。どこから来て、どこへ向かうのかも違う者たちが、一列になって進む様は、まるで流浪する町だった。
隊列は現在、コルヴェンキヴィを出て進路を北北東へ定めて動いている。途中の街々で離脱する小隊もあれば、合流する小隊もある。そうやってさらに大きくなっていくという。シピたちが乗っている荷馬車は、そうして合流したひとつだ。
シピは以前から知識としてその形態を知っている。しかし実際にそれがつつがなく運営されているのを目の当たりにすると、いかに難しいことを成しているかがよくわかる。
「あん? これはあたしのじいさんが始めたやり方なんだよ。あたしは受け継いで、守ってるだけさね」
感嘆を口にしたシピへ、ウルスラはそう答えた。しかしそう言いつつも褒められて嫌な気はしないのだろう。隊のどの部分がどんな役割を果たすのか、またどんな人々が所属しているのかを詳らかに説明してくれる。
「――いろんな人間がいるよ。だから、あんたたちを運ぶのにちょうどいい」
最後に、そうひと言つけ加える。長い長い列を見て、シピもそれに納得する。
ウルスラからは、そのうちシピにも仕事を割り当てると言われている。今はまだオネルヴァをひとりにはできない。オネルヴァはシピを頼りにし、他の者へ気持ちを許していないからだ。それに、シピ自身が世間知らずだが、オネルヴァはそれを遥かに凌駕して人としての常識を身に着けていないのだ。そんな彼女をひとりにしておけない。
けれど、そのなにもしないでいる時間は、シピのためにも必要だった。荷馬車の出入り口に座り込んで一日を過ごし、隊列の様子を眺め、それから人々の動きを見、学ぶ。書物の文字では得られない、生きた知識だ。それは、シピにとってかけがえのない経験になった。
月経が始まったオネルヴァは、寝込んでいることが多い。腰や腹が痛いのだという。シピはそれを代わってやれるわけでも、痛みを緩和してやれるわけでもなく、ただ傍にいてやることしかできない。けれどうつらうつらと眠っては、はっと目を覚ましシピの姿を確かめる――そんなオネルヴァの様子を見ていると、傍にいてやることこそが今の彼女には必要なのだとシピは思い至る。
ウルスラが言うには、月経は長くても一週間。人によっては数日で終わるものらしい。世話人の外衣をかぶって横になるその姿を見ながら、シピは思いに耽る。
これが、初潮から数えて六回目の月経だ。これが終わり、そこから――
隊列の観察をしながらふと差し挟まる、何度目かわからないその思索。それはもう訣別すべきものだ。なのに考えてしまう。シピは、そのために十年の間、御輿を担いだのだ。そのために選ばれたと、幼いころから教えられて来たのだ。シピという人間を形作る、魂に織り込まれた礎の価値観。それを真っ向から否定するのは、こんなにも難しい。
六度目の月経の終わり。それは、器としての完成を意味する。そこから数えてちょうど二週間目。
その日から――『器の儀』が始まる。
シピは、首を振る。この動作も何度目かわからない。たとえその日がすぐにやって来ようと、シピとオネルヴァにはもうなにも関係ない。そう思おうとする。けれど、また思考は堂々巡りをする。
オネルヴァは、どう思っているのだろうか。器の儀が始まるべき日付けを、正確に把握できるのはオネルヴァだけだ。さすがに、月経がいつ終わったかを本人へ問うのは憚られる。
気持ちを問いたいと思う。けれど、どんな答えを聞いても、きっとなにかを悔やむ気がして怖い。シピは、タイヴァスを出て、臆病になった。
ごそごそと、背後でオネルヴァの起き上がった音がする。シピは振り返って荷馬車内を見て、幾分顔色の悪いオネルヴァの様子を窺う。目が合うと、オネルヴァはゆるゆると立ち上がり、世話人の外衣を持ったままシピの元へとやって来た。
「おはようございます。オネルヴァ。体調はどうですか」
オネルヴァは、シピのすぐ隣りにしゃがみ込み、長く考え込んだ。そして少しだけ首を傾ぐ。先ほどよりは好調なのかもしれない。
シピは、気持ちを問いたいと思う。あなたは、どう考えているか、と。今の月経が終わったら、あなたは日付けを数えるのか、と。
けれど、できない。オネルヴァは隣りにいるけれど、その瞳は、シピを見ていない。なにかを捜しているようだ。風に揺れる布、荷車の揺れ、列を歩く小さな子どもたち――そのすべてが、彼女にとっては初めてなのだ。
シピもまた、先ほどまでそうして世界を見ていたはずだった。なのに、どうした在り様だろう。
言えるだろうか? 器の儀について。タイヴァスのやり方から、逃れて来て今があるというのに。
外気は冷たく、乾いた風が肌をかすめていく。シピはふと、その中で自分だけが世界から置いていかれたような錯覚に囚われる。オネルヴァがどこかを指差した。もしかすると、遠くに見える隊の旗印に興味を持ったのかもしれない。
でも、シピにはわからなかった。その先を見たが、なにも。




