第二十三話 排泄
オネルヴァが飲食する様子を見るのは、シピにとって彼女を人と確信できる大きな手がかりだ。事実、彼女が瓶を口に運ぶとき、そして魚の詰まったカラクッコとしばらくにらめっこした末に、首を傾げて口をつける仕草を見たとき――シピは安堵とも納得ともとれない清々しさを覚えた。
それは、自分が成したことを正当化する上でも必要だった。やはり、オネルヴァは飲食をする人なのだ。器と呼ばれ、ただ胤を注がれるだけの存在として扱われるべきではない。
これまでシピが姫神子の存在と器の儀のありさまを受け容れていたのは、姫神子がそのような存在だと教えられ、そのままに信じていたからだ。神の足が幼少期から取り分けられ、タイヴァスにて俗世へ触れずに育てられるのは、そうしないと姫神子の神性に人の体が耐えられないからだと聞いた。だから、自分がそのために選ばれたことを重くとらえていたし、器の儀についても生死のかかった聖なるものだと考えてもいた。
しかし、オネルヴァは人だった。今こうしてシピの前で、口にしたカラクッコの酸い味に硬直している、ただの人だ。
「ご不浄。どこ」
食べきれなかったカラクッコをシピへと手渡し、オネルヴァは言った。
部屋の隅にある蓋付きの大きな壺がそれだ。シピがそれを指差すと、オネルヴァは立ち上がってそれに向かう。ためらいなく服裾をたくし上げようとするので、あわててシピは階段を下りる。
ああ、そうか。オネルヴァも排泄をするのだ。三分の一ほどしか減っていないカラクッコを持て余しながら、階下でシピはぼんやりとそんなことを考える。人だと何度も確認しておきながら、それについては面食らっている自分に驚く。
どれくらいの時間で部屋に戻ればいいのかわからない。男性と女性では、排泄時間もおそらく違うのではないかと思う。シピ自身も催してきたため、あわてて手に持ったカラクッコを食べきる。そして周囲を見渡し、他に用足し壺がないかと探す。見当たらなかったため、建物の隙間の茂みに失礼した。
手持ち無沙汰で、シピは周囲を探索した。もちろん、オネルヴァのいる部屋からは遠く離れない。ウルスラにかぶせられた帽子を目深にし、人の気配がする通りを覗く。
朝の時間。多くの人が行き交いながらも、互いのことを頓着していない。それぞれの一日を始めるために移動しているのだと、シピにもわかった。こんな時間の、こんな光景を見るのは初めてで、シピは動悸が激しくなる。
ひとしきりその流れを目で追った後、シピは踵を返した。世の中を知らなすぎるシピは、目にしたことを素直な感動で受け止めきれない。なぜなら、シピは今ひとりではない。――オネルヴァがいる。
漆喰壁の建物まで戻り、細い階段を登ろうとする。そして見上げると、オネルヴァが階段へしがみつくように座っている。驚き、シピは数段駆け上る。
「オネルヴァ、どうしましたか」
「シピ!」
シピの姿を見ると、オネルヴァは身を投げ出してシピへと飛びついてくる。あわてて抱きとめる。もしオネルヴァがもっと大きな体で、シピが強健な男子でなかったら、いっしょに転げ落ちていたかもしれない。危ない、と言うことはできなかった。オネルヴァは、泣いていた。
「シピ! シピ! シピ!」
「はい、オネルヴァ。ここにおります。私です」
「シピ!」
それは、シピが見た初めてのオネルヴァの感情だった。これまで、彼女の表情が少しでも動いたところを見たことがない。今、泣きじゃくりながらシピの胸に頬を寄せるその小さな姿が、これまで以上に愛おしくなる。
おそらく、戻らないシピを追って階段を下りようとしたのだろう。しかしこの階段は細く急だ。それに、タイヴァスには階段がほとんどない。シピですら少し怖いと思うのだから、御輿に乗るときの数段の足場にしか慣れていないオネルヴァには、本当の恐怖だっただろう。ぎゅっと抱きしめて、シピは不安に思わせてしまったことを何度も謝った。
移動にて幾分南下し温暖とはいえ、初冬の外はそれなりに寒い。けれどオネルヴァが部屋に戻りたがらないので、ともに階下の段に座っていた。
視界にあるのは隣家の壁と、雑草。その程度。裏路地のために人通りもない。それでも、オネルヴァにとっては未知の世界なのだろう。シピの服の袖口をぎゅっと握ったまま離さずに、飽きもせずずっと見えるすべてを観察していた。
「……あんたたち、なにやってんの」
呆れた声があったのは、日が高くなり、陽気が心地よくなったころだ。
ウルスラは、先ほどとは違う服装をしている。狩人から商人になったようだ。手に大きな袋を持っていて、その中身は衣装だと思えた。
「ほら、着替え持って来たよ。部屋に戻って」
「……オネルヴァが、階段を怖がるのだ。登れない。他で着替えるわけにはいかないだろうか?」
「はあ。さすがお姫さんねえ、階段すら怖いとは。……わかったよ、じゃあ馬車ん中で着替えよう。着いといで」
言うが早いがウルスラは歩き出す。それは来た方向とはまた別の道だ。
シピはあわててオネルヴァを抱き上げ、その後に続いた。




