第二十二話 是認
濁った水のような嫌悪感が、はっきりとそこにある。けれど、それをおくびにも出せないと感じる。どっちつかずの気持ち――だが……ウルスラの言動の根底にあるものが、シピにはなぜか、わかってしまった。
上の空のままのシピを尻目に、ウルスラはしゃべりたいだけしゃべってから、再びオネルヴァの食事を取りに戻っていった。去っていく背を、見るともなしに見つめながら、しばらくの間、シピは息を潜めていた。
ウルスラが世話人へと向けた、燃えるような執着。それは、シピにとって肯定できるものではない。理解すら、困難だと思う。相手がすべてを失うことをよろこび、ましてや、相手を所有しようとすること――自分のものにしたいと願うこと。そんな恐ろしい想いを、ウルスラはまるで誇るように口にした。それは、世話人の人格や決定権を完全に無視した、考えだ。忌まわしい。それはただ、底知れぬ恐怖だった。
ウルスラは言った。世話人こそが、彼女にとって神だったのだと。
その考え方は、姫神子を抱くタイヴァスで育ったシピにとって、異端とも言えるものだ。身震いを覚える。ウルスラは、神が座す御輿ではなく――それを担う者を、神とみなしたのだ。
……それは、恐るべきことだ。
神の足が、一般人にどのように思われているかは、よく知っている。シピ自身も、祭りのあとにはたくさんの恋文をもらう。だれが一番多くの手紙をもらったかを、足の仲間内で競うことだってある。
けれどウルスラのそれは、そんな生易しいものではない。もっと激しく、もっと破壊的で――そこからは、きっとなにも生まれない。
そんなことが、あっていいのだろうか。そう思う。
それなのに、完全には否定できなかった。
なぜなら――
シピ自身も、同じことをオネルヴァにしているのではないかと、思い至ってしまったから。
シピが、オネルヴァを連れて出奔したのは、オネルヴァ自身をあのままにしてはおけないと思ったからだ。彼女は神ではなく人であり、まるで物のように扱われていた。それが許せず、堪えられなかった。
では、その気持ちに――シピがオネルヴァを連れ出した衝動に、ウルスラと違うところがどこにあるだろう。相違点をあげつらうのは簡単だ。けれど、目を伏せたいのに視界に入ってしまうのは、あるひとつの点だった。
シピにとって――オネルヴァは、今でも神だ。
シピは、オネルヴァを見る。静かな寝息がそこにある。シピは、そのかんばせの美しさに見惚れた。これまで女性と多く接したことはないけれど、それでもオネルヴァはとりわけ美しい女性だと思う。そして、白い小さな手。シピに触れた、手。
今こうして、オネルヴァに対峙すると、抱えて走ったことがまるで幻だったかのように思う。
どうしてあんな無造作に触れることができたのだろう。眠る彼女の前では、こんなに心がひやりと竦む。
それなのに触れたい。相反した気持ちが揺れる。
これは、シピのオネルヴァへの気持ちは、これまでにもらった見知らぬ令嬢からの恋文にも似た感情だろうか。
照らし合わせてみる。同じところはたくさんある。
話したことがあるわけでもないのに、ただ外見のみでシピの内面を知った気持ちになっているところ。
多くの場合独りよがりで、気持ちの押しつけであるところ。
それに……選ばれたがるところ。
シピは、恐る恐るオネルヴァの黒髪のひとふさを手に取る。その毛先をおしいただいて、それから口づけする。それすらも自分には過ぎたことだと思う。そっと手を放したときに、ゆるゆるとオネルヴァの目が開く。ぼんやりとあたりを見た後、その視線はシピを捉える。
それは、とても贅沢な時間だった。言葉はない。ただ部屋にふたり、そこにあるだけ。互いを見つめている。シピの瞳にはオネルヴァ。オネルヴァの瞳にはシピ。そのことに、これまでに感じたことのない充足感と、叫びだしたいような悦び。
けれど、昏い考えがそこに影を落とす。ウルスラのことを。彼女が、世話人へ成したことを。
働きかけたのは世話人からだ。それは間違いない。しかし彼女はそれを良しとし、世話人自身が咎めだてされることを自分に都合よく用いようとしている。それはとても醜い欲求だとシピは思う。けれど――きっと自分も同じだと思う。
「……オネルヴァ。オネルヴァ。ただ、ひとこと言葉をくださいませんか」
ああ、なんて自分は醜いのだろう! それでもシピはその懇願をやめられない。
今ここに来て、この部屋にあって、喉を潤す飲み物や腹を満たす食物よりも必要なのは、ただひとつだ。
「……タイヴァスよりも、器の使命よりも、世話人殿よりも。私を選んだのだと。どうか、是認を。ただひとことください」
喉の奥が焼けつくようだった。息を呑み、願いを言葉にする。
「――私を、選ぶと……」
だれよりもなによりも、オネルヴァに。自分がおまえを選んだのだ、と。それがほしかった。
オネルヴァはじっとシピを見た。そして、ゆっくりと身を起こす。寝台に腰掛け、寝起きの物憂げな様子で首を傾ぐ。
そして、シピへとその白い手を伸ばす。
「……シピ」
鼻筋に。そして、おとがいに。
心が震える。それは、はっきりとした肯定だ。息を止め、叫び散らしたい衝動を抑える。
階段付近で音がした。はっとしてシピは振り返る。
オネルヴァの食事を持って来たウルスラが立っている。シピと目が合ったとき、彼女はにやりと笑った。それは、あたかもすべてを知っている者の、薄い嘲りとも、共感ともつかぬ表情だった。




