第十九話 幌
シピの首に、オネルヴァの腕がしがみついている。彼女は世話人がくれた外套を羽織り、靴も履かず裸足のままだ。しっかりと抱き走る。壁伝いに西へ、西へ。どこまで走っても終わりが見えない。そのとき、ようやく気づく――タイヴァスは、これほどまでに広大だったのだ。
闇が恐ろしいと思う。樹木の生え並ぶ影の重なりに、野生動物が出やしないかと不安がよぎる。きっと高く打ち鳴らされている鼓動は伝わってしまっているけれど、オネルヴァがシピの臆病な心を知らずにいてくれればと思う。
タイヴァスの中のようになだらかで整備された地面ではない。自然にできた隆起や木の根を避けながら、オネルヴァとともに転ばぬよう慎重に進む。当然ながら、それは全速力の走りとは程遠い。シピは焦燥を覚えながら、荒い息を吐く。かなりの時間を要していると感じる。壁は地の果てまで続いているのではと錯覚する。
やがて、不意に視界が拓けあわててシピは止まった。依然森林の中ではあるけれど、壁が途切れ、天を見上げられるわずかな空間がある。星が見える。――空がある。それだけのことが、こんなにも救いになるとは。シピは胸いっぱいに冷たい空気を吸い込み、細く吐いた。呼吸を整えながら、オネルヴァを抱え直す。
じっと、されるがままだったオネルヴァは、立ち止まったシピから体を離して立とうとする。体温が去ってシピは少しの喪失感を覚える。霜が降りていない柔らかな土の上を選んで、シピはオネルヴァから手を放した。
あたりを見回す。これまでと同じように木々が濫立している。シピの胸に、またじわじわと不安が湧き上がる。確かに、タイヴァスの外には出たはずだ。背中を流れる汗が、夜風で急速に冷たくなっていく。世話人の言葉を信じたのは正しかったのか――その問いが、胸の奥をじわじわと冷やしていく。
なんにせよ、また移動しなければならない。明け方までに、世話人がいつも三度扉を叩いたあの時刻までに、どうにか乗り合い馬車の目処を立てなければ。オネルヴァとシピがいないことはすぐに知られるだろうし、となればタイヴァンキから出るのは時間の問題だ。
「……オネルヴァ、行きましょう」
呼吸が整って体が冷え切ったころ、シピは声をひそめて言った。オネルヴァは小さく首を傾ぐ。もう一度シピがオネルヴァを抱きかかえたとき、二人のものではない声が響いてシピは仰天した。
「あんたたちはだれだい」
聞き慣れない低い声。おそらく女性のものだとシピは思う。あたりを窺う。夜に慣れたシピの目でもどこに居るのかわからない。恐れが胸をひと掻きした。けれど、世話人が述べた言葉を頼りに、シピは声を張った。
「われらは、ケシュキタロの者だ」
シピの声が冷たい空気に広がる。数拍の後、木々の間から人影が出てきた。
波打つ長い髪を高く結い上げた女性だった。身に着けているものは狩猟用の被服に思える。自分の母とオネルヴァ、それに御輿を担いだ際に街道で列ぶ着飾った人々でしか女性を知らないシピには、そうした服は女性にとって一般的であるのかわからない。
彼女は値踏みする意図を隠しもせずに、オネルヴァを抱くシピを頭から爪先まで見る。嫌な気分になる。けれど、もし世話人の言葉が確かであるなら、この者は手引きをしてくれる者なのだ。
ふっと鼻でひとつ笑って、女性は踵を返す。そして、シピたちが来たよりも更に西へ向けて木々の中へ分け入って行く。
「ついてきな。あっちに馬車がある」
シピはその言葉に安堵と不安を同時に覚える。――この人はだれなのか。信じきれない、それでも頼るしかない今の自分に歯噛みする。見失ってしまわぬように、けれど近づき過ぎぬように、シピはその後を追う。
数十分程度歩いたところで、山道に出た。あまりにほっとして、シピは大きく息を吐いた。確かにそこには幌馬車があり、御者席にはだれかが座っている。女性はシピたちを振り返ると、馬車へ歩み寄り幌の中を覗いた。
「とりあえず、この中に乗って。このままタイヴァンキを出るから」
「あなたは、だれなのか」
「あー、そういうのも、後でで。あんたたち、そんな悠長なこと言ってられないでしょ?」
そう言って急かすように女性は手招きする。疑いを払拭できないまま、シピはオネルヴァとともに乗り込む。女性はそれを見届けて幌を閉じると、御者席へと向かったようだ。
幌の中には藁が敷き詰められていた。おそらく、シピたちが馬車の動きに耐えられるよう。オネルヴァをそこに座らせて、シピ自身もあぐらをかいて座った。御者席側の幌布がめくれ、女性がシピたちの様子を窺う。
「これから半日くらい、昼ごろまでこれで走るよ。できれば寝ておきな。その方が体に負担が少ない」
「どこへ向かうのだろうか?」
「まずはハメサロへ。そこで一度休憩」
「その後は?」
「さあ? あんたたち次第じゃない?」
そう述べて、女性はじっとシピたちを見る。月の逆光で、女性の表情は窺えない。けれど、彼女の視線がオネルヴァに注がれているのは、はっきりとわかった。
「……さすが。似てるね。あの人に」
その声色はどこか熱を持っていて、シピはその言葉の意味へ思いを巡らす。あの人とは、世話人のことだろう。彼が、シピたちをこの馬車へと導いたのだから。
「じゃあ、またあとで。おやすみ」
そう述べて女性は幌布を下ろした。それと同時に馬車が動く。シピはオネルヴァへと手を伸ばす。オネルヴァもシピへと手を伸ばしていた。
走っていたときのように、シピはオネルヴァを胸に掻き抱いた。あらためて腕の中にあるオネルヴァは小さかった。しばらく揺れていて、意識を研ぎ澄まし続けることに疲れ切ったシピは、いつの間にか眠りに着いた。




