第十八話 壁
シピは、大きな衝撃を覚えた。世話人がオネルヴァの名付け親であるばかりか、実の父親だというのだ。
実父であるということは、すなわち……先代の『神の足』だったのか。
オネルヴァが伸ばした手を、世話人はぎこちなく両手で取った。顔の表情こそは変わらねど、包み込むように、愛しむように、雄弁なその指先は動く。シピは確信した。間違いなく、この人はオネルヴァの父だ。――だからこそ、怒りが込み上げる。なぜ? 娘だとわかっていたのに、なぜ。
「であれば、なぜ――なぜあなたは、オネルヴァにあのような苦しみを生む方薬を!」
大きな声を出してはいけない。そうはわかっていても、シピは思わずわめいてしまう。それでもオネルヴァの腕を引き戻さなかったのは、握った手を見つめる瞳に、世話人が持つ深い悲しみを感じ取ってしまったから。
世話人は何も言わない。ただ、オネルヴァの手を包み込んだまま、その指にわずかに力を込める。
いくらかの後、世話人は言った。
「私に、なにかを成す力も、変える力もないよ。私は世話人。ただ、姫神子と御輿の世話をしてきた」
なにかを諦めて来た者の静けさをもってその声は響く。その口ぶりからして、彼には方薬に関わる力はなかったのか。だとしても――シピの中にもどかしい葛藤が生まれる。
沈黙が降りた。冷えた空気が、呼吸の音すら際立たせる。
「……おそらく、おまえのように怒ることこそが人のことわりなのであろうな。けれど……私はおまえのようになれなかった。疑問を抱きつつも、名付けつつも。それでも――己を責めぬ日など、ないよ」
オネルヴァが、もう一度くしゃみをした。世話人はその音に現実へと引き戻されたように、彼女の手をそっと放す。そして自分が着ている上着を脱いで、シピへと渡した。いくらか面食らいつつもシピはそれを受け取り、オネルヴァを包んで抱え直す。
「私は、おまえに問う。タイヴァスを、出るのか」
「……そうだ。オネルヴァとともに」
「それが、どれほどの困難か、わかっているのか。外に出れば、姫神子も足もない」
「元より承知している。タイヴァスの先の困難よりも、タイヴァスにある不条理が、私には堪え難い」
シピを見る世話人の瞳が揺れた。彼もまた、堪え難く思っていた人間なのだ。けれど、シピのようには立ち上がれなかったのだ。オネルヴァが器へと作り変えられて行く様を、ただ見ているしかないのはどれほどの苦痛だろう。
シピはもう気づいている。世話人は、シピとオネルヴァを留まらせるために今ここへやって来たのではないのだ。
それが父としての情なのか、世話人としての責任に準じてなのか。世話人自身も、もう分かってはいないのかもしれない。ただ、案じて――静かに、深く、案じて。
世話人は、深く呼吸をした。白い息が吐き出され、世の中の凍てつきを知らせる。何拍か後に、世話人はいっそ優しげとでも言えそうな声色で、告げる。
「出たところで、おまえには成す術もないであろうに。おまえは私と同じで、タイヴァスの中で育ち、外を知らない」
「言われなくても、そんなことはわかっている!」
「私から、手向けをやろう」
世話人はまた、オネルヴァを見た。鼻をすすりながら、オネルヴァもそれに視線を返す。シピは世話人が述べたことに毒気を抜かれる。手向けとは。自分たちを、祝福し送り出してくれるということなのか?
「着いてきなさい。だれかに気取られては困るから、灯りはつけぬよ」
そう言って、世話人は踵を返す。言われたことの意味を咄嗟には理解できず、シピはしばらくその背を見ていた。オネルヴァが身動ぎし、世話人の方向へと手を伸ばす。はっとして、シピは世話人を追う。
そもそもが、オネルヴァのいた部屋そのものが禁域。よって、世話人が奥へ奥へと進むにつれ、シピが目にしたことのない風景へと変わる。木々がうっそうと茂る場所を通りかかったとき、その中に建ち並ぶ墓石を見た気がした。そして、タイヴァスをぐるりと囲む、高い高い、隔壁。
こんなに間近に見たのは初めてだ。御輿を担ぐときは正門から外へ出る。よって、壁そのものに対峙することはなかった。世話人は、なにもないと見える隔壁へとためらいなく近づき、そして手を触れる。
壁石のひとつが、動くのだ。力を入れて横へとずらすと、人ひとりが通れるほどの出入り口が生じる。驚きのあまりシピの喉が鳴る。世話人がためらいなくその穴をくぐるのを見て、あわててシピもそれに続く。
隔壁の外は、森林だった。夜がさらに深まり、闇がそこかしこから襲いかかってきそうだ。世話人は、静かに、静かに言った。
「壁沿いに、西へ歩け。なるべく早く。壁の終わりごろ、そこに居る者から名を問われたら、ケシュキタロと名乗れ。……私ができるのは、ここまでだ」
そして、タイヴァスの中へと戻ろうとする姿に、オネルヴァが手を伸ばす。
「てて様」
足を止め、世話人はうつむく。オネルヴァがもう一度呼びかける。それに首を振って、力なく世話人は振り返る。オネルヴァはまるで包容を求めるように、世話人へと両の手を差し出した。
世話人は、少しだけ悲しむような、どこか幼子のような、揺れる瞳で腕を差し伸べる。オネルヴァはシピの腕の中から世話人の元へと移る。シピは動揺した。
父と娘は、これが最後だと知っているように、言葉なく時を分かち合う。世話人の肩が揺れる。見てはいけない気がして、シピは目を逸らす。
「……愛しているよ。どうか、幸せに」
ささやかれた言葉は、木々のさざめきに溶けた。




