第十七話 蒼碧
空気は夜陰にあって張り詰めている。消灯の時間をふたつほど過ぎて、寝静まった沈黙の中でシピの白い息遣いと霜柱を踏む音だけがある。
シピの足ならば、普段はほんの一息の距離。だが今夜は、闇が空間そのものを引き伸ばしたかのように、異様に遠く思う。いつもとは違う時間。もしかしたらだれかに見咎められる可能性もある。明け方のように、ただ運動をしていたとごまかすこともできない。よってシピの焦燥はこれまでにないものだったし、覚悟していたとはいえ激しい鼓動が胸を突き破りそうだ。
ようやく手が目指す壁に届いた瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩む。けれど、その一息に忍び寄るように、背筋を這う警戒が胸を締めつける。闇を振り返る。だれか、見る者はなかったか。だれか、聞き咎める者はなかったか。
息を殺し、その場にじっと留まる。暗がりに慣れた視界には、シピの着けたつま先の跡が点々と見えるのみ。それも冷え込み行く夜のお陰で、また新たな氷を張る。
そろそろと、壁に背を着けたまま、這うように横へ進む。角まで来たときにもう一度周囲を窺い、はっと息をついて曲がる。耳を澄ます。痛いほどの静けさが、あたりを支配している。……だいじょうぶだ。
そのまま窓際へ。寒い夜半、窓は半分ほど開いている。シピのものではない息遣いがそこにある。
背筋を伸ばして覗き込む。そこにはオネルヴァがいる。そこに、いる。
いつからそこに立っていたのだろう。白い頬は寒さに紅潮し、すんすんと鼻をすすり上げる様子もある。オネルヴァの瞳が、ただ真っ直ぐにこちらを見つめている。その奥にあるなにかが、シピの胸の奥をかすかに震わせた。言いようのない高まりを覚える。言葉が、浮かばない。
ただ、両手を差し出した。
オネルヴァが、手を伸ばす。
そっと腰に手を回し、抱き上げる。御輿によらないオネルヴァは軽くて、あまりに軽くて、シピは泣きそうになる。しっかりと腕の中に閉じ込める。これから先は、タイヴァスの外。もう、戻らない。
「……行きましょう。オネルヴァ」
その温もりをしっかりと感じながらシピが小声で告げると、オネルヴァは腕の中で身動ぎする。それは肯定だと思う程度にはシピは自惚れていたし、この状況に取り返しもつかなかった。なので、返事が別のところから降ってきたとき、空気が裂けた。
鼓動がひとつ、飛んだ。声にならない悲鳴が喉の奥でつかえ、シピの心は――絶望に落ちた。
「待て。一」
建物の陰から。シピが来たのとは、逆の方向から。……聞き覚えのある声だった。
あれほど激しく鳴っていた鼓動が一瞬止まるかと思うほど。シピは、ぎゅっとオネルヴァを抱きしめたまま、そちらを向けない。
黒髪の世話人だった。シピがオネルヴァの方薬について調べていることを把握していた男。霜を踏む音が響き、彼はオネルヴァを抱くシピのすぐ傍に並んだ。
「おまえは、どこへ行く?」
それは、単純ながら芯を食った問いかけだ。静かな声だった。けれど、すべての逃げ道が塞がれたと思う。シピは、オネルヴァを連れてどこへ行くというのだろう。
タイヴァンキの地図は何度も見た。タイヴァスから大きく回って、夜の間をずっと移動すれば、きっと早朝の乗り合い馬車に乗れる。シピが企てられるのはそのくらい。その後のことはわからない。
どう答えればいいというのか。頭の中を多くの考えが巡り行く。けれどこの場にふさわしい言葉など知らない。シピはただ、今あるそのままのことを述べた。そして、世話人へと顔を向ける。
「どこへなりと。タイヴァスではないところへ。オネルヴァとともに行くのだ」
すん、すん、とオネルヴァが鼻をすする。体温を分け合うようにシピは腕に力を込める。世話人はすべてを知っていたのだろうとわかる穏やかさで、シピをじっと見ている。そして、言った。
「おまえは、なにも知らない。世に出て、二人でどうするのだ」
「わからない。けれど、この部屋にオネルヴァを留まらせることができようか。罰せられてもかまわない。私は連れて行く」
はっきりとした語調でシピは返した。自分が物知らずなことは理解している。自分が向こう見ずなこともわかっている。しかし、時間がない。
オネルヴァには、時間がない。
世話人とじっと見つめ合う時間が過ぎた。オネルヴァがひとつ小さなくしゃみをした。小さな体から伝わる熱が、夜の寒さに抗うように震えている。シピは彼女を抱え直す。
世話人は一歩も動かず、深い洞察をにじませた瞳でオネルヴァを見つめる。ふと、その眼差しに、咎める色はないとシピは気づいた。
「……それに、オネルヴァと名付けたのは、私だよ」
ぽつり、と言葉が落とされる。静けさに飲まれるには、あまりに重く、深く響く言葉だ。シピは驚きと動揺を隠せずに、それは真なのか、と口の中で言った。
すると、オネルヴァが。シピの腕の中から、白い手を伸ばす。それは世話人へと向けられている。
世話人の服に触れ、彼女はつぶやいた。
「てて様」
シピは、オネルヴァを見た。そして、世話人を。はっと気づいた。世話人もまた、美しい蒼碧の瞳であると。深く――美しい。




