第十六話 決め手
シピは、一年前の自分を思い出す。あのころの自分は、憂いも疑問もなく、御輿を担いで日々を過ごしていた。
それはそれで、きっと幸せだったのだろう。なにも疑わず、与えられた役目をただ果たしていれば、それで価値があると信じていられた。
今は違う。知ってしまった。――わかってしまった。禁書庫で見つけてしまった、姫神子の系譜を目にしてから。
それまでは禁じられた場所に足を踏み入れようと思ったことすらない。ましてや、閲覧制限のある書を手に取ろうなどと、思い至ったこともない。
やはり、オネルヴァ。シピにとって、すべての起点はオネルヴァ自身だ。
オネルヴァは十七の姫神子とされている。数字だけではなく、名前が記録されていた数少ない姫神子だ。
多くの姫神子は、名も残さず記録から消えていった。名を与えられた者でさえ、器としての役目を終えたあとには、もうなんの言及もない。
……空恐ろしい。彼女たちは、どこへ消えたのだろう。
ただ雲の向こう、天と名づけられた不在の奥へ、沈んでいったのだろうか。
シピたちは――タイヴァスに帰依する者たちは、こう言い習わされている。新たな姫神子を産んだ器となった姫神子は、天へと帰るのだと。それゆえに、タイヴァスが高き処に築かれ、天空と意味する名をつけられているのだと。
その意味の本当のところを、知るのが、怖い。
一から十六、すべての姫神子のことを、シピは思う。
どのような人たちだったのか。どのような気持ちだったのか。ただ御輿に乗り、器となり、消えていく。オネルヴァのようにすべてを受け入れていたのだろうか。それともいくらかは反発をしたのだろうか。名のある姫神子と、そうではない姫神子。その違いは、いったい何だったのか。だれに尋ねることもできなくて、シピはただ、自室で横たわり思いに耽るばかりだった。
オネルヴァが人であるのなら、他の姫神子たちもまた、人だった。神の形代など――ただの幻想にすぎない。
それなのに、そうあるべきと存在した彼女たちに、言いようのない激しい悲しみを覚える。
シピは、少しだけ泣いた。自分の無力さと愚かさが、胸に押し寄せて。
このタイヴァスで、彼女たちがどのように過ごして来たのかをシピは知らない。
ただ、そこに残っているのは、だれも読むことのない系譜だけ。置き去りにされた記憶のように。はっきりと、彼女たちがかつて存在し、今はもういないことを記して。
彼女たちは、かつてそこにいた。けれど今は、もういない――その不在の事実が、シピには重い。
……とても、重かった。
彼女たちに、手向けとなるなにかをできないだろうか。ずっと、何度もその問いが胸に浮かぶ。
墓があるのかも知らない。オネルヴァの元を訪れるようになってから、毎朝タイヴァスの敷地内を走り回った。禁域以外はどこでも走った。それでも、それらしき物は見ていない。
けれど、シピは彼女たちのことを偲びたい。その存在の不在を、嘆いていると示したい。人であった姫神子たちへ。
長く黙考した後に、出した結論がある。彼女たちを偲ぶ方法とは。
それは、この連鎖を――姫神子の系譜を、途絶えさせることではないか。あの禁書庫の書へ、これ以上数字を増やさないこと。
それこそが、彼女たちへの弔い――手向けになるのではないか。
シピは、そう考えた。
オネルヴァとともに逃げるべき理由が、増えた。
逃亡の準備など、具体的にどうすればいいのだろう。わからないことだらけだが、シピは実行すると決めたのだ。
そろそろ荷物をまとめようと思った夕暮れ時に、三がやって来て、なにか尋ねたそうに部屋の中を覗いた。
「どうした、三」
「今日は、書庫に行かなかったのか?」
「そうだな。一日中、部屋にいた」
「……それは、もう進路を決めたということだろうか」
胸の内を悟られたかと思う質問に、シピは一瞬言葉に詰まった。けれど、揺らぐことはない。もう決めたのだ。迷いはない。
「そうだ。私は、タイヴァスを出るぞ」
「そうなのか……意外だ。おまえは、残るのかと思ったのに」
どうやら三が欲しかった回答ではなかったようだ。彼はシピの部屋の入り口付近で多少ぐずぐずして、さらに小声でシピへ尋ねた。
「その、決め手はなんだった? 参考にしたい」
「決め手か――」
シピは、ここに至るまでの自分を思い返す。窓の外で、初冬の夕日が冴え冴えと沈んで行く。これだけたくさん考えたのに、言葉にしようとすると、途端にわからなくなる。シピは、慎重な口調で述べた。
「――私は、物知らずで、愚かだ。長い間目隠しをされ、それに気づこうともしなかった。そう気づけた。それが、私の決め手だ。痛みの中で、ようやく目を開けた」
それは、本心からの言葉だ。
三は、やはり予想をしていなかった言葉だと、その表情で示す。なにかを言いかけて、やめた。
目を伏せ、軽く頭を下げる。音もなく部屋を出ていくその背を、シピは見送った。
夕餉の前に、シピは旅立ちの準備をする。
物は少ない。元々、多くを持たない生活だった。あまり使用したことのない肩下げ鞄へ、いくらかの下着と、寄進された貴金属。それに、両親が持って来てくれた書をいくらか。それだけ。
この部屋ともこれでお別れなのだと思うと、たとえタイヴァス自体を信じられなくなった今でも、物悲しい。歴代の『一』が住まう部屋。
これまで、シピのように、姫神子を逃がそうとした者はこの部屋にいただろうか。
姫神子を、ただの器ではなく、人として見つめた者が――この部屋に、かつていたのだろうか。
そっと壁に手を触れ、シピは過去を想った。




