第十四話 人
慎重になるべきだと、頭ではわかっている。オネルヴァの元へ行くのはやめたほうがいい。心の中でそう思い浮かべてみても、それはあまりに空々しく、シピの行動を抑えるには至らない。
足はあの窓へ向かう。これまでと同じ道を踏む。もし世話人がシピを咎め立てるつもりならば、きっとそうと知れたときに動いたはずだ。それでもシピは、これまで通りの生活を続けている。なぜなのだろう。
世話人の気持ちはわからない。シピに理解できるのは、持て余すばかりの衝動だけだ。シピはオネルヴァに会いたい。それだけ。
オネルヴァが罰を受けるのでは、と一瞬考えた。だが、彼女はそれより酷い現実をすでに生きている。そもそも人として扱われていない。そして、たとえ叱責されるとしても、彼女はあの部屋から逃れようとはしないだろう。それは、シピの訪れを拒まないのと同じだ。
そう思うと、胸が痛む。シピは気づいている。オネルヴァは、シピを待っているのではない。状況をありのままに受け入れているだけなのだ。
今朝も窓は開いている。オネルヴァはそこに立っている。それはシピがやって来る前からの習慣に過ぎないのだろう。目が合う。近づく。昨日までのシピは、そこで朝のあいさつをしたものだ。けれど今日は違う。
彼女の目の前に立つ。部屋の土台部分が厚いため、シピがそこに立つと背が低い彼女とちょうど丈の高さが同じになる。じっとして、驚きも、何らかの感動もオネルヴァの瞳に浮かびはしない。過去に二度、彼女からシピの顔に触れてくれたことがあるので、おそらく無関心ではないと思っている。……願っている。
なにも告げずに窓枠へ手を掛け、そのまま乗り越えた。オネルヴァの部屋へ――侵入する。
それでもオネルヴァの表情は動かない。まるでシピがそうすることを予測していたようだ。もしかしたらそうなのかもしれないし、そうあってほしいとも思う。
同じ高さの床に足を着けたなら、本当にオネルヴァは小さかった。その背丈はシピの胸のあたり。それに、肩幅はシピの半分ほど。風が吹けば倒れてしまうのではないかとシピは思った。
なにか、反応があるとは思っていない。けれど、それを願っていた。シピはしてもいない約束を破られた気持ちになる。シピがじっと彼女をみつめると、彼女もシピを見上げた。
「……オネルヴァ」
名を呼ぶと、彼女はゆるく首を傾ける。まるで、小鳥が降る雨を不思議そうに見上げるかのように。それだけだ。なにか、たとえばシピを責めるとか、そんなことでもいい。言葉がほしかった。けれどオネルヴァはなにもかもを受け入れて、波風立たず穏やかだ。
それに対して、少しの焦りと、それをかき消すほどの悲しみを覚える。
「あなたは、どうして、そんなにも平穏なのですか」
内心は知れない。もしかしたら心の中では、シピを罵っているのかもしれない。そうは考えてみるものの、本心からそう思うわけではない。
きっとオネルヴァは、心を動かすほどに、この世に希望を、そして未練を持っていないのだ。
目を合わせて、それを感じる。
オネルヴァはまた首を傾ぐ。それは肯定よりも、疑問の表明に思えた。
自分がシピの目にどのように見えているかなど、彼女は興味もないだろう。ただ、そこに在るだけ。姫神子としてこれまで。そして器として今。シピが、幼いころから『足』である自分に疑問をもたなかったのと同じように。いや、それよりもなお悪い。
「キナンジュジュバの種。それにロンガンの果肉。鹿の角。ピオヘデルマ。これを、今朝も飲んだのですか?」
これには是認のうなずきがあった。その動作はゆったりと美しい。けれど室内の灯りで見る顔色は蒼白で、やはりそれらの方薬はオネルヴァの健康のためではないと改めて思う。歯噛みする思いがある。どうにかしなければと思う。その気持のままに、シピは言う。
「なぜ、それを飲んでいる? 何のために?」
何拍か後に、また是認。そして、静かにオネルヴァは述べる。
「姫神子を産む、強い器になるため」
その揺るがぬ瞳は、それを当然のこととして受け入れ、疑問すら抱いていないと告げている。シピは、言いようのないさみしさで身震いした。
言葉を選ぼうと思う。けれどシピはそうできずに、ただぐるぐると何度も考えたことを口にした。
「オネルヴァ、あなたはオネルヴァだ。器などではない。私と同じ人なのだ。まるで自分が姫神子を産むためだけに存在しているかのように、考えないでほしい」
静かな夜明けに、シピとオネルヴァの間にあるのは、揺らぐ灯りと黙だけだ。それらは両者をつなぎもしないし、離しもしない。
オネルヴァは、シピの言葉を理解できないようだった。是認ではないしかたで首を傾ぐ。本当に意味がわからないのだと思う。それは、他に選択肢を持たないからだ。
シピは薄暗い室内を見回した。少し乱れた敷布の他は、まるでなにもない。卓と椅子。何冊かの書物。壁際には小さな物入れ。それだけ。
こんな中にひとり閉じ込められ、ただ時間をやり過ごして――それに苦痛すら感じていないのか。
彼女は、どこか壊れてしまっているのかもしれない。泣きたくなる。人としては壊れてしまって、そのゆえに悲しみも反発も苦痛も感じないのだとしたら、シピにはなにができるだろう。
その場にひざまずく。まるで、幼いころから担ぎ続けた御輿へしたように。その中には、オネルヴァがいた。見上げた小さなかんばせは、シピをじっとみつめている。
「オネルヴァ。私はずっとあなたを担って来ました。私にとって、あなたはずっと神でした。そしておそらく今もそうなのです。けれど、私は知っています。――あなたは人だ。私と同じ人だ」
その瞳の中に感情の揺らぎを探す。けれどその双眸がきらきらと光るのは、ただろうそくの灯りによるものだ。それでも、彼女が聞く耳を持つ限り、シピは語り続けようと思う。
「一昨日、伝えましたね。私は歴史の書物が好きだと」
ゆっくりと是認のうなずきがある。シピはそれを確認してから、言葉を続ける。
「しかし、古典はなかなか難しい。歴史と関連があるのに、なぜか苦手意識があるのです。あなたには、そうしたことはありますか?」
オネルヴァからの答えはない。沈黙が横たわる。きっと、彼女は今、しっかりとシピの言葉を吟味し、考えてくれている。窓の外に、ろうそくによらない明かりがさし始める。無情にも時間は過ぎる。
「鳥。飛ぶの。そして歩く」
それは、好きなのだろうか、苦手なのだろうか。いずれにせよ、オネルヴァがシピの言葉を真剣に考えて答えてくれたのがそれだった。シピの心が喜色に染まる。窓の外に光が満ちていく。
朝の鐘が鳴った。これで終わりだ。シピは咄嗟に、以前自分に触れたオネルヴァの白い手を取る。とても小さい。立ち上がり、それを自分の胸に当てる。
「あなたは、人です。器じゃない。私と同じように鼓動する人です。好きや苦手がある、人です」
シピを見上げる目は、そのままシピの胸に添えられた手へ移った。どくり、どくりと、自覚するほどに大きく胸が高鳴る。
そして、扉が三度打ち鳴らされる。
シピはオネルヴァの手を離して身を翻した。一足跳びに窓枠を越え、そして走る。走る。走る。
そして、ひとつの決意をした。




