第十二話 作り替える
ぐずぐずと時間が溶けていく。壊れた砂時計から砂がこぼれ落ちるように、じわじわと取り返しのつかない何かが迫ってくる。シピはそれに焦りを覚える。
いつも、と言っていた。鼻血が出ることについて、オネルヴァはそう述べた。まるで、それが当然かのように。
それに、薬剤の影響だと受け入れている様子だった。それはなぜか? いつから飲み始めたのだろうか?
習慣になっていることは間違いない。シピがいくらか調べた限りでも、これらは『器の儀』を想定した薬剤だ。生殖と女性性に影響を与える処方。
シピは嫌な想像をしてしまう。初の穢れから、もう五カ月を数えている。そしてそれは『器』として強いものとなるために設けられている期間だ。それはどういうことか。
鼻血を出すのが恒常的なのであれば、それは薬剤が体に合っていないのだ。そんなことは物知らずなシピにでもわかる。
なのに、オネルヴァは飲み続けている。……受け入れている。
それは、なぜだろう。
言葉少ない、美しい人の姿が脳裏に浮かぶ。
シピは、彼女が何かに抗う姿を想像できない。否定の言葉を聞いたことがない。シピが突然現れた朝にでさえ、オネルヴァは動揺することなく、ただ静かにその存在を受け入れた。
彼女は、拒否することを知らない。そのような人だ。この数日、数十分。それだけの交わりでもシピにはそう理解できる。
なので、こう考えた。――これらの薬剤は、オネルヴァの意志とは無関係に、服用させられているものだ。
それは、はたして本当に、オネルヴァのためなのだろうか?
書をめくって、それらの薬剤が方薬と総称されているようだと把握する。特定の名を出せば、おそらく訝しまれるだろう。シピはじっくりと頭の中で言うべきことを考える。医官へ、質問すべき言葉を探す。
しばらくの後、読んでいた書を手に立ち上がる。そして医官の部屋へと向かう。どくり、どくりと、シピの胸は低い音で速い拍子を打つ。
「……一ではないか。おまえがこちらへ来るとは、珍しい」
医官は、もう老齢に近い従者だ。タイヴァスには強健な男子が集っているので、病を診ることは稀だろう。――それでも。オネルヴァに薬剤を処方するとしたら、この者だ。
言葉に詰まってシピが逡巡すると、医官はシピの手にある書へ目を向ける。そしておおらかに笑う。
「なに、医薬に興味を持ったか。それは良い」
「わからないことがある。教えてくれ。医薬と方薬は、違うものなのか」
「おお、なかなかいい質問をする。まあ座れ。茶を淹れてやろう」
うれしそうな表情をする医官に、少しだけ胸が痛む。促されるまま椅子に座り、シピは茶が沸く様をじっと見る。
「そろそろ、私も退くときだと思っていたのだ。もしおまえがタイヴァスに残って学び、私の跡を継いでくれるなら、こんないいことはない」
「それは、わからない。私はどうすればいいか、考えている最中なのだ」
「まだ時間はある。ゆっくりと考えるといい」
手渡された茶が熱い。冷ましながら、シピはなにを問うべきか思い起こす。
「医官殿。私はこの書を読むまで、方薬を知らなかった。どういったものなのだろうか?」
「目的が違うのよ。医薬は、治療と緩和を。方薬は、改善と維持」
「改善と維持? 治すための薬ではないのか?」
医官は目を細めてシピを見る。それは司書がシピを見るときと同じ、子を想う親のようだ。とみに幼いころ、大小さまざまな怪我をして世話になったことをシピは思い出す。
「ああ、たとえば貧血になりやすい者へ鉄分を補うようなものだな。すぐに効果が出るわけではないが、長く服用すれば体質が変わる」
はっ、と息をつく。初の穢れから、強い器へと作り替える時間を持つこと――それに合致するのではないか、と思う。
医官の言葉に動揺したことを悟られないよう、シピは茶を口に運ぶ。苦い茶だ。医官は思い出したように言う。
「その茶も、方薬だ」
「えっ」
思わず口から離し、器の中を覗き込む。医官は声を上げて笑った。
「即効性はないと言っただろう。今口にしたからといって、どうなるものではない。この茶は、健康のために私が常飲しているものだ」
「常飲……それは、いいのか? 体がおかしくならないのだろうか」
「適量を、体調に合わせて、長く飲む。それが方薬の効果を発揮する飲み方なのだ。体質は、すぐには変わらぬからな」
「どの方薬も?」
「どの方薬も」
シピは、どう聞いたらいいのか悩む。鼻血が出るほどの量は、適量なのだろうか。オネルヴァに方薬を処方しているのは、やはりこの医官なのだろうか。
茶の湯気を見ながら、シピはそっとつぶやく。
「……もし、飲み過ぎたら?」
「それは、医薬も同じことだが。過ぎたるはなんにせよ、体のためにはならぬだろうよ」
「具合いが悪くなる?」
「だろうな。良くなるどころか、内蔵に負担をかけることになるだろう」
内臓に負担がかかると、鼻血が出るだろうか。
それを聞きたいと思ったが、それはオネルヴァに直接言及することにも似ている。シピは医官に茶の器を返すために手を伸ばす。
「ごちそうさまでした」
「飲み干せ、この程度でどうこうならん」
「……恐ろしく感じたから」
「おまえのようなしっかりとした体格の若者が、茶の一杯でどうもならぬよ!」
本当におかしそうに医官は声を上げて笑った。シピは少しだけむっとする。よって飲み干す。
そして、これを逃したら聞けぬと思い、口を開く。
「私のような体格じゃない者には、毒になり得るのだろうか?」
「心配するな。どのような者にであれ、適切な処方であれば害にならない」
「内臓に負担がかかるほどに飲んでしまったら、どうなる? 効きすぎるのだろうか?」
「どの方薬なのかにもよるが――」
医官は、シピが疑問に思うことにしっかり答えるつもりのようだ。少し考えを巡らせた後、シピの顔を見る。
「方薬が体から抜けるまで、多くの場合慢性的な体調不良を抱えるだろう。無気力になり、眠りは浅く、おそらくずっと気分は優れない。その方薬の効能が、そのまま反転し体を攻撃する」
オネルヴァの姿を思い出す。
彼女が、いつもあのように静かで、無抵抗のように見えるのは、それが原因なのではないか?
彼女の体の中は……攻撃を受けて、それで――
「……恐ろしいな」
「だから、私ら医官がいる。医薬であれ、方薬であれ、正しく用いるために」
シピは、その言葉にうなずくことができない。あなたは、オネルヴァのためには正しく用いていない、と心が叫ぶ。
怒りなのか、悲しみなのか。シピの胸を覆うものは。それすらわからない。ただ、喉の奥に熱い塊がこみ上げる。
なにか余計なことを言ってしまう前に、シピは立ち上がった。そして器を返して、礼を述べてその場を去る。




