第十話 邂逅
つま先が土と芝を蹴る。夜明け前の冷たい空気によって凍りついた地表がしゃりしゃりと音を立てる。足跡は日の出とともに溶けてなくなる。けれどそんな計算はシピにはない。寝静まったタイヴァスでは、寝ずの番の見張りも中庭を通らない。よって見咎められることもない。だからこそ、広い芝生を斜めに突っ切り、目指すのは離れた高台にある小さな部屋。
空が白むころには素知らぬ顔で自室にいなければならない。自分の白い息遣いのみが現実的な中、どこか冷えた頭でシピは現状を見る。なんて滑稽だろう。なんて愚かだろう。なんて必死で無様だろう。そう考えながらもシピは自分を嗤うことはできない。
御輿を担いで祭殿内廊下を歩いたときは二十分程度だった。シピの足で最短距離を走り抜けたならさらに近い。目の前へ迫った建物に胸が跳ねる。それでも足を止めず、シピは白い壁へ手を伸ばす。触れる。それは、オネルヴァがシピの肌に触れたときよりも、ずっと怯えた仕草だ。
壁の前に立ち止まり、息を整える。両の手のひらを添える。そっと。崩れてしまうのを恐れるように。この壁の向こう側にオネルヴァがいる。……オネルヴァがいる。
以前触れられた鼻先をその壁につける。鼓動がうるさくてシピは息を止めた。耳の奥で、無遠慮な楽器が掻き鳴らされるようだ。オネルヴァがいる。
なにがしたいのかシピは自分でもわからない。会いたいと明確に思ったわけでもない。居ても立ってもいられない気持ちがあるけれど、禁を犯してまで壁に触れたかったわけでもない。でも事実こうして、オネルヴァを囲う物に触れているとき、こうしたかったのだと思う。
やがて自分の中の音よりも、痛いほどに響く静寂が鼓膜を叩き始める。シピは手のひらを滑らせて、壁沿いに歩く。それも考えなしの行動で、どんな結果になるかを予想したわけでもない。
角の隅石まで来る。それほど大きな建物ではない。すべての祭殿聖域からは死角になる面へ指を走らせ、息を殺したままシピもそちらへ移る。そして、視界へ入ったものに、また心臓がひとつ大きく跳ねる。
窓が――ある。
はっと息を呑み、深く吸い込む。シピはまばたきの仕方をわすれてしまった。だれの命令にも因らずに足が動く。吸い寄せられる。近づくほどに、耳が渇望している音を貪る。
声だった。小さな。独特の拍子で、独特の音程で。歌。歌詞はない。穏やかで、軽やかな、女声。
シピが近づくと、それは途切れた。おそらく霜が降りた芝を踏んだ、シピの足音を聞き咎めて。危機感を伴う焦燥から、シピは数歩の距離をすぐに詰めた。
窓際にあったのは、あの蒼碧の瞳だった。
シピはもうずっと囚われている。そしてさらにがんじがらめになる。シピの胸元より上にある窓枠へ手をかけたとき、オネルヴァ自身に触れたかのように心が震えた。見上げたまま目を外せない。白く小さなかんばせ。甘い菓子のように色づいた唇。闇を溶かして梳いた長い髪。じっと、シピを見つめたままの、美しい双眸。
胸に滞ったものを吐くように、シピはもう一度息をした。それは白い。そして、オネルヴァも。
「――私は、知っていたのです。あなたの息も白いことを。ずっと、ずっと前から。」
なにかを言おうとしたわけではない。けれど黙を裂いて響いたのは、シピの低い声だった。ああ、ああ。心が、胸が、熱を持つ。
考えがあったわけでもない。けれどまろび出たその言葉は、シピの心情そのままだった。ああ、ああ。なにかを望んでやって来たのではないのに、シピの思いは貪欲に染まった。
「あなたの名前も、知りました」
瞳の色が揺らぐ。感情の見えない表情でありながら、シピの目にはそれがわかる。それだけで全身にしびれが走る。何度もひとりで口ずさんだ美しい音を、シピは熱にうかされた気分でもう一度歌う。
「オネルヴァ」
一拍ののち、その名の持ち主は是認するように少しだけ首を傾ぐ。シピの心が喜色に染まる。目を離せない。息の仕方がわからない。シピは正面に立ち、彼女を見上げる。
「オネルヴァ」
オネルヴァはそっと、白い両の手を窓枠に添えた。そしてじっとシピを見下ろす。そうしている間に、遠くの山峰の端から、空が白んで行く。
まだ闇が足元を包んでくれているうちに、戻らなくては。シピの中の几帳面な部分が折り目正しくそう述べる。離れ難くて、ずっと彼女を見ていたくて、シピは泣きそうな焦燥を覚える。
「……私は、シピというのです。ずっと、あなたを担いで参りました」
どうにか留まれないかと、シピは悪足掻きで名乗る。他に述べる言葉も知らない。女性とは、なにを話せばいいのか。まして、姫神子だった人へ。
また一拍ののち、オネルヴァはもう一度首を傾いだ。そのわずかな変化は、やはり彼女の是認なのだとシピは思う。吐く息が白い。シピも、オネルヴァも。
朝日の頭頂が山間から覗いた。それをきっかけに周囲へ光が満ち始める。はっきりとした光の中で、オネルヴァの姿を見る。
美しい、と思った。
だれよりも、だれよりも。
縫い止められたようにシピの足は硬直している。オネルヴァはその姿をじっと見ている。手を伸ばせばそこに、触れられる距離にオネルヴァがいることに、シピは今更ながら驚愕する。なにも言えないでいる中、オネルヴァの手がそっと動いた。
あの、薄絹をかき分けて伸ばされたように。……シピの額へ。鼻筋へ。頬へ。唇へ。
「……シピ」
ただひとことだった。
それだけだった。
心が言葉に収めきれない悦びで、打ち震えた。
「シピ」
白い指が静かにおとがいをなぞる。シピは、もう今ここで死んでしまってもかまわないと思う。オネルヴァ。オネルヴァ。美しい人。
シピの心を囚えた、美しい人。
世界はもう、長い夜を抜けた。シピの中にも光が満ちた。
遠くで朝の訪れを告げる鐘がひとつ鳴る。シピに添えられた指が外れる。それを咄嗟に追いかけそうになったとき、部屋の奥から扉を叩く音が三つ聞こえた。シピは我に返る。
次の瞬間には視界からオネルヴァの姿が消えていた。それに言いようのない喪失を感じながら、シピはそっとその場を去った。




