第一話 名
本日3話投稿です
シピ・イェレ・レヘヴォネン。それが彼の名前だった。けれどその名で呼ばれた経験は記憶の彼方で、彼はただ「一」と呼称されている。
それは八つのころからの習わしで、不便とも思わなかった。そうやって十年を過ごして、彼は立派な体格の青年へと育った。任を解かれるまで、彼はただの『一』だ。それがこの世界の理だ。なので、自分の名前のことなど、普段はわすれている。
――けれど、その価値観にも疑念が差し挟まってしまった。
彼は、その書物に記されている名を、つぶやいた。
「……オネルヴァ・リューリ・ケスキタロ」
彼の低い声が、静まり返った禁書庫に溶けていく。諳んじたその文字列は、その途端彼の心をがんじがらめにする。捕えられた。それは彼にとって力ある言葉だった。
心に刻み込むように見つめ、それから書を閉じた。そしてそれを元の場所へ戻した。
なにひとつ不自由のない暮らしをしてきた。ここは祭殿聖域。人々はそれを、天空を意味する言葉――タイヴァスと呼ぶ。
一である彼、シピは、それに疑問を持ったのだ。場所にでさえ名前がある。自分にも、年に一度だけ会える両親からもらった名がある。
では――『彼女』には。
そう、考えてしまった。
自室に戻り、彼は鏡で自分を見た。精悍な顔立ちの褐色肌。琥珀色の切れ長の瞳。それを縁取る睫毛は長く、髪と同じ砂色をしている。
眉には剃り込みが。そして両の耳たぶには突き錐で貫いた痕に銀の耳飾り。それは『姫神子』に仕える誓いをした者の印だ。
彼はよく美しいと形容される。その容姿ゆえに『神の足』に選ばれタイヴァスにて育てられた。他の『神の足』たちも同じ境遇だ。幼い頃から、互いのことをあてがわれた数字にて呼び合っている。そのようなものだ。それが当然だった。
「――名が、あるのだ。……私にも。そして……『姫神子』にも」
声に出してから、それはだれにも聞かれてはならぬ言葉だと気づき、周囲を見回す。
静かな空間には、彼の他にだれもいなかった。
いたとしても、呼びかける名を知らぬ、と彼は思った。
窓から外を臨む。高い丘の上に建てられたタイヴァスの裾野には、整えられた街が広がっている。
それらは、すべて『姫神子』を神と崇めている人々の集まりだ。タイヴァスの下にできた都市のため、天空の都市という名がついている。人々は愛着を込めて、タイヴァンキと呼ぶ。その眼下の光景を信じられないもののように感じて、彼はその感覚にこそ戸惑った。
あそこに集っているのは、名を持たぬ『姫神子』を奉じる、名を持つ人々だ。
けれど、あった。みつけてしまった。
こんなことを考えてはいけないと知っている。けれど、幼い日。そして、昨日。
考えてしまったのだ。もしかしたら、と。
『彼女』は――『人の子』ではないのかと。