2、相談相手はいずこ
何が、起きたのだろう。
瞬きを忘れて迫るものを見ていた。
見ていることしか出来なかった。
獣は、何かに叩かれたようにゆっくりその巨体を傾けていき、倒れた。
いや、実際に叩かれたのだろう。
ランドルフも驚きを隠せない表情で見ていた。
私と同じ黒だけど私より艶やかで長い髪を風に揺らし、瞼を半分落とした気だるげな表情で、その手に箒を持って立つ──私の兄の姿を。
「朝っぱらからガオガウうるせぇーな、静かにしろよ犬っころが」
まさか、ソレで殴ったの?
というか、色々言いたい。
今はもう昼だし!犬じゃないから!!
【狼男の純情】
結果としては、我が家の納屋が壊れただけで誰も怪我をせずに終わった。
ランドルフの幼馴染みで同僚な、私の七番目の兄──ヘリオはこの日は非番で家で寝ていた。
お天道様がとっくに昇りきった、その時刻まで。
怠惰にも程があるけど、この際そこはどうでもいい。
『魔』を象る獣──魔獣と呼ばれる獣が二度吼えた声が煩くて起きてきたらしい。黙らせるために。
箒は壊れた納屋の近くで転がっていたのを拾ったようだ。箒より武器になりそうな農具があったのにそれを選ばなかったのは、曰く「掃除をするなら箒だろ」とのこと。後の後になって聞いた。
ヘリオが来てすぐに「邪魔だ」と言われて離れてしまったから詳しくは知らないけど、日が暮れる頃に帰っても大丈夫だと他の騎士に報せてもらってから帰るといつも通りにだらけた兄がいた。
昼間の出来事が嘘のように思えてくるぐらいに、いつも通りだった。
畑から離れた後は、落ち着けるようにと私もよく知るランドルフや兄の友人の店に向かった。
兄の心配はあったし、町は大丈夫か不安で仕方なかった私の傍にずっとランドルフはいてくれた。
それから一刻も経たずに騎士団の人が片付いたから戻っても大丈夫だと報せに来た。ヘリオが無事だと聞いたが、実感出来なかった。
「まだ怖い?」とランドルフに聞かれて頷くと、「もう少し店にいたらいよう」と手袋の取れた手で握られた。
じわりじわり、熱を帯びる。
「エマ?」と心配気に名前を呼ばれて、顔を上げた。
割りと冷静ではあったと思っていたけど、血の気が引いていただけかもしれない。
手だけだけど、安心している。人の体温に。……ランドルフの、だからかも。
はらりと目から落ちたのは、たぶん涙。
怖かった。魔獣自体も、町や大切な人がいなくなるかもしれなかったことが。
そして、それ以上にもう……ランドルフに会えなくなるかもしれなかったことがどうしようもなく怖かった。
安心したことで零れたのかもしれない。
可愛く泣くことも出来ずに数滴落ちただけで止んだ。
昔のように、泣く私の傍で慰めてくれていることに懐かしさがあって……本当になんともならなくて良かったと思った。
日が暮れてしまう前に店を出た。
久しぶりに会ったから、もう少しだけ……ううん、もっとずっと長く一緒にいたかったからランドルフが家まで送ってくれるという言葉に甘えた。
同年代の子より小柄でからかわれたくなくていつもは早足で歩くけど、少しでも長く一緒にいたくてゆっくり歩いていた。
それなのに、私に合わせて歩いてくれた。家の近くで怖い思いをしたから帰り辛いと思わせてしまった。
時間をかけて歩いても十数分。
会話はほとんど出来なかった。というより、一年近く会っていなかったから話したいことはたくさんあったはずなのに、いざ話そうと思うと何も浮かばなかった。
もっと、声が聞きたいのに。
もっと、こっちを見てほしいのに。
家の前まで、しっかり送ってくれた。
これから騎士が巡回するから安心してほしい、と。ゆっくり休んで、と。
そして、「また」と言ってくれた。
優しいな、ランドルフは。
でも、勘違いしちゃいけない。
ランドルフは誰にでも優しいから。私じゃなくても、他の人にもこうするから…。
ランドルフと会えて、表情が弛んだ。
また、があるんだ。そう思ったら嬉しくてたまらない。
が、閉めた扉を背にした途端に凪ぐ。
ソファに寝そべり、自身の襟足から伸びる赤い一房を長い指で解きながら、こちらを見ている兄がいたから。
別にからかってくる訳じゃないけど、この兄は私がランドルフのことが好きだと知っているからじっと見られると気まずさがある。
父と母は?と見回してもおらず、ますます気まずい。私の視線の動きに気づいて、二人とも緊急の寄り合いで出かけたと知らされる。
町の片隅とはいえ、魔獣という危険なものが出たのだから仕方がない。
夕飯の準備はしてあるようだから、時間がくるまで自分の部屋で過ごそうと思った。
すると、ヘリオに手招きされる。
「こっちにおいで、ちっちゃなエマちゃん」
なんだろう。
昔は「エマ」と普通に呼んでいたのに、いつの頃からか「ちっちゃなエマちゃん」と呼び始めた。
特別な何かがある時にだけ呼ぶ呼び方じゃなく、普段の呼び方だ。
普通に呼んで!と抗議しても変わらず、面と向かう時は「お前」だから呼ばれることは少ないから気にしないことにはしたけど……いつまでも子供のままだと言われているようで本当は嫌。
ランドルフに呼ばれた時はショックが大きかった。幼い時はまだ可愛いがられていることが嬉しい時期でもあったからいいけど、今呼ばれるとランドルフにまで子供扱いされている気がするのだ。子供としてしか見られていない気がする。
……もう私は、私の心はちゃんと女になっているから。
いつまでも、ランドルフの中でも、ちっちゃなエマちゃんのままだったら、それはこの兄のせいだ。
むすっとした表情になっているかもしれないけど別にかまわない。
「何よ」と言いながら近くまで行くと手を引かれる。身体を起こすヘリオとこつんと額と額が合わさる。
なんだろう。
普段からよくわからないのに、ますますわからない。
久しぶりにこんな間近で見たヘリオの目はとても綺麗だった。家族の中で唯一母と同じ薄紫をした目。
その奥に青い種火が見えたような気がして、引き込まれるように見た。ヘリオを見て、呼ばれて、鬱になった気持ちは無くなるぐらいにじっと。
綺麗なのは、目だけじゃない。顔自体も整っていた。
ランドルフとは違ったタイプの綺麗さ。
ランドルフが快活でキラキラした太陽であるなら、ヘリオはミステリアスな夜の月。中性的で線も細いから、少し背の高い女性と間違われているのを見かけたことがある。あくまでも黙っていればの話。口を開けば、男とわかるぐらいに声は低いし、何より口が悪いし、……性格も悪い。
兄らしいことをしてもらった記憶もあまりない。ランドルフのことを知りたくて、親友というから大いに利用はさせてもらってはいるけどね。
とか思っていることがバレたのか…
「俺は、お前が思っているよりずっとお前のお兄ちゃんなんだよ」
と合わせた額をぐりぐりと押し付けられる。
痛くはなかったけど、「いたいぃぃ」と身を捩るとすぐに離してくれた。
あまりないとは言ったけど、兄らしいこともたまにしてくれることはあった。
遊んでいて、私が怪我をした時に真っ先に駆けつけてくれること。傍にランドルフがいて、心配してくれているのを押し退けることもあって、お兄ちゃん邪魔!と思ったことは何度かある。でも、普段兄らしいことをしてもくれないし、目もあまり向けてくれないヘリオがお兄ちゃんをしてくれるのが嬉しくもあった。
もしかしたら、睡眠を邪魔されたからじゃなくて、私を助けに来てくれた?
聞いても答えてくれないだろうし、そう聞いている自分を想像すると恥ずかしさが込み上げてきて、そんな考えを振り払うように「部屋に戻るから!」と足早に自室に足を向けた。
「一人で考えたってどうしようもないことは幾らでもある」
お前は頭が足りないんだから、と言われてカチンときたけど…。
続いた言葉で、肩から力が抜けた。
「いつだってお兄ちゃんは妹の味方だから、いつでも相談しに来なさい」
と、いつになく穏やかな声で言ってきた。
だから「ありがとう」と返した。
この夜は、怖いこともあったけど、ランドルフに久しぶりに会えて話せて、ヘリオが珍しくお兄ちゃんっぽく接してくれて、不安なんて何処かに消えてしまったようにぐっすり眠れた。
翌日、ああ言っていた兄が消えた。
私が起きる何時間も前に出て行ったらしい。「しばらく留守にする」と言って。
え?いつでも相談しに来なさい、って言ったのに…?
母から聞いて、ぽかんとした。