1、バカなアイツと私の話
これは、一人のバカな男の話。
そして、そのバカの言葉一つ一つに一喜一憂してしまう──バカな私の話、でもある。
【狼男の純情】
町で見かけた姿に呆然とする。
広い町ではないのだから、度々見かけるソレは珍しいものでない。
珍しくはないけど、胸がズキリと痛んだ。
──あぁ、私はアイツが好きなんだな。
遠めからでも目を惹くアイツから目を反らして帰路に着く。
私とアイツ──ランドルフは幼馴染みだ。
とはいっても、実際はアイツの幼馴染みである三つ歳が上の兄のオマケとして一緒にいただけの私を幼馴染みと認識しているかはわからない。
アイツが先に学舎に入ったことで一緒に遊ぶことが減り、アイツが騎士になってからの一時期は顔を合わせることもなくなった。今は、ほとんど毎日顔を合わせているから人生はわからない。
あのまま…顔を合わせることのないまま忘れていくのかな、と思っていた。
淡く懐いた、恋心と一緒に。
まぁ、忘れるには難しい、美しい男なのだけど…。
太陽の下でキラキラと輝く金色の髪、よく晴れた空を想わせる青い眼。
端整で気品を感じさせる容貌。
騎士という立場になって更にその美しさを引き立てた。引き締まった表情から甘く綻ぶ表情に多くの女性の心を鷲掴みにしている。
キラキラした、そんな男に手を差し伸べられエスコートされるとしたら落ちない女性はそういない。
私も手を差し伸べられていくうちに惹かれていったのだから、女性たちの気持ちはわからなくもない。
初めて会った時もお伽噺に出てくる王子様のようだと思っていたところに、優しくされてコロリと落ちた。
私にだけ特別ではなかったけど、私には特別だった。
先頭を走るような元気な兄について行けずに泣きべそをかく私を気にかけて、一緒に最後尾を走ってくれた人。はぐれないように手を繋いでくれて、不安にならないようにいつも笑いかけてくれた人。
その時の私が好きになるには十分過ぎた。
成長していくアイツも綺麗で、目で追ってしまうことが度々。
出会った頃の中性的な容貌が年月が経つにつれ、美しさを持ちながら男らしいものに変わっていった。美丈夫、とはこういう男をいうのだろう。
子供から大人に変わっていくうちに好意を寄せる女性の数が増えて、傍にいたら明らかな敵意を向けられるようになった。
アイツが恋人を作ったと噂を聞いたのもこの頃で、一時疎遠になったのはこの頃だ。
………女は怖いし、アイツの隣に立つ誰かの名前を愛おしげに呼んでいる姿を見たくはなかった。のに、町では度々見てしまう女性と一緒にいるアイツ。
馬車に女性と乗り込むところや、アイツの家に入っていくところも見たから、たぶん間違いない。
恋人を紹介されたくなくて、避けること一年。
再会したのは、暖かくなり始めた春。
家の手伝いをしていた時だった。
森の実りが多くなる時季で、獣が下りてくることはこれまでまったくなかったのに、ひどく興奮した状態で現れた。しかも、この辺りではほとんど見ない『魔』を象る獣。
何故こんなものが?
倒すにしろ、追い払うにしろ、農家の娘に出来ることではない。
普通の獣より遥かに大きな、肉食型の獣に私はただただ恐怖した。
今より小さく、足の遅いから逃げ切れない。だからといって、大きな声で近くにいるかもしれない兄たちに助けを呼んだとしたら獣を刺激してしまう。
『魔』に対抗できるのは、『魔』だけ。
この国は『魔』には疎く、『魔』の力を扱える魔導師は極わずかだから国の中枢に集められている。
『魔』の獣は都市より田舎に現れることが多いから、一応対抗できる『魔』の力を宿した武具は少量、各村や町の騎士団に配られ管理されているらしい。
でも、国自体が『魔』に疎いために扱いきれず、国内での『魔』の力を宿した武具を作れず、数も少ないために毎年何処かの村や町で被害が出ていた。たった一体の獣に町が…壊滅させられた、という話も聞く。
そんな獣が目の前にいる。
助けを呼んでも呼ばなくても、私だけじゃなく、町も…危ない。
家族は?友達は?町の人たちは?それに、アイツは……ランドルフは、どうなる?
自分がどうなるかじゃなく、大切な人たちに起こる悲劇が頭を過った。
心臓が壊れるんじゃないかと思うぐらいに音を立て、嫌な汗が流れていた。
私が声を上げたら気づいてもらえるだろう。でも、逃げてくれる?家族は反対にこちらに来てしまう。
どうしたらいい?
どう、声を上げるべき?
まだ、獣は私に気づいていない。けど、下手に動けば気づかれて、まだ開いている距離もあっという間に無くなる。
どう、動くのが私にとっての正解なのだろう。
考えるほどにわからなくなった。
混乱するほどにランドルフのことが頭に浮かんで、その名前を呼びたくなった。
だって、これが最期かもしれないのだから…。
会えないまま、終わりたくなかった。
「……ぁ」
自分の声かと驚くぐらいのか細い声が出た。
獣がこちらを向き、私をその目に捉えたのだ。
どうしよう、なんて考える間も無く。
獣は弾かれたように牙を剥き、突進してくるかのようにこちらに向かってきた。
私をはっきり捉えたのは一瞬だけ。理性など感じさせない、焦点の合わない目に、開いた大口から唾液を撒き散らす。
嗚呼、喰われる。
迫る牙を前に、足が竦んだ。出来たのは、ぎゅっと目を瞑り、その瞬間を待つだけ……
「エマ!!」
私を、呼ぶ声がした。
記憶にあるより少し低くなった、私の知らない引き攣ったような声。
目を開けるより早く感じた浮遊感は抱き上げられたからだと知る。
獣にはやはり理性はないのだろう。真っ直ぐ突き進むだけのソレを、私を抱いて横に跳んで避ける。ギリギリだったから、一緒に地面に転がることになったけれど。
「エマ!大丈夫か!?」
色々な驚きで思考が止まっていた私と違って、瞬発的に身体を起こして声をかけてきた。
「あ、うん」としか返せず、らしくなく眉間に皺を寄せた表情を向けてくる──アイツを、私は見上げる。
うん、やっぱり少し成長している。
疎遠になっても、遠めからは姿は見ていた。こうして、近くで見ると記憶の中のアイツと少し違うのがわかった。
心配の色を滲ませた視線は向けられたけど、それも僅かに、すぐに別のところに向けられ警戒の色に変わる。
私もその視線の後を追うと、納屋に頭から突っ込んだ状態で動きを止めた獣の姿があった。
そういえば、納屋から出て兄たちのいる別の畑に向かおうとしていた時に獣が現れたのだった。
「此処から離れるぞ」と小声で、耳元で伝えられる。
そんな間近で感じた息遣いに、胸が跳ねた。
手を差し出された自分より大きな手は手袋越しでも以前より分厚くなっていたのがわかる。
支えてくれる腕も、寄せられた胸板も、逞しくなっているように思えた。立ち上がって見上げる顔の位置も、前より高い。
たった一年会わないだけで、知らない人になってしまったような…。
立ち上がってから、じっと顔を見上げていた。
ランドルフからも、反らさず真っ直ぐに落とされる視線。
握ったままの手もそのままに、時間が止まったように感じた。
……そんなことあるはずもなく。
数秒も経たずに、けたたましい咆哮が鼓膜だけじゃなく、一帯の空気を揺らす。
肩を跳ねさせると、その肩をランドルフに抱き寄せられた。
守られてる。…嬉しい。
と今思うべきじゃないのはわかっていても嬉しいと思ってしまう。
本当にこんなことを思っている場合じゃない。
頭を振って切り替え、ランドルフの腕の中から獣を確認する。
獣はちょうど納屋からのっそりと頭を出し、こちらを向いたところだった。
「…っ!」
合うとは思わなかった目が、合った気がした。
何か違和感を感じたけど何かわからず、一瞬だったから気のせいかと思った。
また、空気を震わせる咆哮が飛ぶ。
さっきのと違って、明確に私たちに向けて放たれたものだ。
私を隠すように下がらせて、ランドルフは剣を構える。
あんなものと戦って無事でいられるはずがないと袖を掴むと「大丈夫」と優しい声を返してくる。
大丈夫なはずがない。
これまでどれだけの人が犠牲になってきたか、騎士であるランドルフなら私よりずっと多く聞いてきたはずだ。
獣は、その鋭い爪で地面を抉り、飛び掛かる。