3 どうしたの、ヘレナさん
「……へ?は…?」
「しー。静かに…」
耳元で甘い声がすることに、ハリエットは頬を染める。何せ、こういった経験もない彼女にとってみれば、これは赤子が初めてハイハイをしたときのように不安で、胸が高鳴るのだ。
そうして、この心地好さに浸ろうとした刹那、地響きがした。
「ク、クレメント様っ!」
令嬢だというのに、髪を振り乱し、スカートをたくしあげながら走ってきた彼女は、恐らくヘレナだろう。
「ん?何だい?」
未だに、ハリエットとクレメントの間は十センチ程しかなく、ヘレナは悔しそうにこちらを見ている。
「い、いえ?別に、何もありません。…そちらは?」
目線で『私のクレメントに近付いてる…』と言っているのが分かる彼女に、溜め息を溢す。彼女は今回のパーティーの主役も分からないのか、と。
「お初にお目にかかります、ヘレナ・タッカリア様。ハリエット・クグルスです。以後お見知り置きを」
「え…、あ、はい。…あれ?ハリエット様、私とどこかでお会いしましたか?」
「さぁ…、どうでしょう」
さっき、スピーチをしたんだがな。
そう言いたいのを抑えて、首を傾げる。まさか、自分の創った彼女にこれ程までに拒絶反応を起こすとは、思いもよらなかった。
「……それより、クレメント様、離れてください」
クレメントにそう言うと、彼は肩を竦めて、腰から手を離した。候補と言えど、彼はヘレナを、ヘレナは彼を想っているのだ。自分が居るべきではない。
「それでは。まだ挨拶をしなければいけない方がいるので」
「はい。またどこかで」
一礼し、再び広間へと入っていく。リードのもとへ行こうか、と考えていると、金色の瞳とかち合った。
「……殿下…?」
エリオス王国第一王子であるチェスターが腕を組み、ハリエットを見ていた。
彼は由良の小説に出てくる重要な人物だ。所謂当て馬というもので、ヘレナに惚れ、猛アピールをするも、その恋は叶わない。
取りあえず、挨拶をしようと腰を折ろうとすると、彼がツカツカとこちらへ歩み寄ってきた。
「ハリエット嬢、何なんだ、あのスピーチは」
「え…?」
聞き返す彼女に溜め息を溢す彼。
「全員が君に惚れているような感覚だったぞ。そもそも、君は女の子のような服装は息が詰まるんじゃないのか。敬語なんて使って…」
「殿下に敬語を使うのは当たり前です」
「私の従姉は使わないぞ」
「それとこれとは別です!」
チェスターは顎に手を添え、考える仕草をしたあと、閃いたように目を大きくした。
「じゃあ、やめろ。君だけには敬語を使われるのが、何となく嫌なんだ」
もう、何を言っても彼はひかない。決めたらそれをやり遂げるまでするような男だ。
「分かった。令嬢のような口調じゃないんだが、いいのか?」
そんなこと承知だと言わんばかりに頷く彼に、『何なんだ殿下は…』と声を漏らす。それを聞き逃さず、チェスターは顔を近づける。
「その殿下というのもやめろ」
「いや、それは譲らない。不敬すぎるだろ、そんなの」
鼻を鳴らし、顔をふいとそらす。
「……だな。侯爵令嬢だしなぁ」
哀しげに目を伏せる彼に、言葉をつまらせるも、甘やかしてはいけないと叱咤する。
「まぁ、いい。…レディ・ハリエット、私と踊ってはいただけないだろうか」
「今?……しょうがないな」
四曲目に入ろうとしていた時に、するりと輪の中に紛れる。チェスターの心地よいリードの仕方と、ハリエットの積み重ねてきたダンスが合わさり、客はそれに気を取られた。
「綺麗だ、ハリエット」
「……ありがとう」