春、浅き春
夜明け前、白み始めた空は浅い黄みの赤。これを東雲色というそうです。久しぶりに目にしました。
今、空は薄い雲を刷毛で塗り込んだような色をしており、遠くの山の峰がおだやかに霞んで見えます。それはそれはなだらかな曲線で、空になじんでうっとりと時間が流れているように思えます。
突然のお手紙すみません。
お元気でしたでしょうか。
頬にあたる風は幾分ぬるくなり、あぁ季節が移ったのだなと昨日思いました。そういえば田んぼに降りていた霜も今朝は見当たりません。
まだ吐く息は白いですが、母は腰を擦りながら深呼吸をしていました。
貴女が都会に働きに出たと聞き、僕はつい汽車の時刻表を目にしてしまいます。仕事とはいえ親元を離れるのは心細いでしょうが、お体に気をつけてがんばってください。
こちらでは貴女の好きな桃の花がほころびかけています。僕の家でも庭のつぼみがぽつりぽつりと咲いています。
今年はいつもより花目が多いようで、部屋の中にも桃の香が漂って暖かい気がします。
つられて雀も飛んで来ます。
鶯はまだですが、山の方では今頃鳴いていることでしょう。とても静かな日々が続いています。
縁台でぼんやりしているとなぜか貴女の幼い顔が浮かびました。
おぼえていますか、桃のツボミを口に入れてしまったことを。
小さな親指と人差し指で器用につまみ、止める間もなく食べてしまいましたね。
膨らみ開こうとする薄紅と甘い匂い。
少し斜めになったおかっぱ頭。
顔をゆがめ「甘いと思ったに」とつぶやいた時は思わず笑ってしまいました。
一緒にいた大人達もしかることを忘れ、大空に響くような声で笑っていました。
あの時の空の蒼かったこと!
ちょうど通り雨が過ぎた後。芽吹き始めた草木に露が光り、きらきらと太陽が反射していました。
僕はその色を今も忘れません。
◆
その建物は明治の洋館を模して作られたものだった。シンメトリーを基調とした和洋折衷の作り。わずかに黄みを帯びた練色の壁面に上げ下げ窓。瓦屋根に関わらず、入り口にはトライアンギュラーと呼ばれる西洋の飾りがついている。
ニ階建てのそこは古い寄宿学校のようで、とても病院直営の場所とは思えなかった。
一階は二階と同じく患者用の部屋が六つと家族のための部屋が二つ、いつでも訪問し泊まれるように並んでいる。
片瀬菜穂は時々ここに見舞っていた。元もとおばあちゃんっ子なので苦にならない。むしろここのハウスの時間の流れが気に入り、言われるでもなく進んでここを訪ねている。
「ああ、いらっしゃい」
看護婦達はみな中年を少し過ぎている。洗練された動きもはつらつとした元気さもないが、ゆったりとあるがままにあるという気風が見えた。
菜穂は馴染みの看護婦を見つけると会釈をしながら聞いた。
「あの〜、おばあちゃんの姿が見えないんですけど………」
「ん。タエさんはたぶん庭じゃないかしら」
「へえ、珍しいわあ。外に」
「春ですからねえ。桃が咲き出したって朝、誰かが食堂で言っていたし」
菜穂は決して慌てない。祖母の顔が見えなくとも騒がない。
ここは時計が穏やかに時間を刻んでいるのだ。
友達に彼氏ができたとか、人間関係がどうのとか、そんなことが些細な出来事のように思えてしまうほどに。
「珍しいな。春ってあんまり好きじゃないと思ってた。ちっちゃい頃、桜の散り方が嫌いだって聞いた覚えがあるんですけど」
桃は別なのだろうか。
「ああ、ここに来て好きになる方は多いですから。季節を見直すっていうか、花の咲くのは特に敏感になられるみたいで」
疑問符を浮かべる菜穂に対し、看護婦はまるでおかしく思っていないようだった。
狭いが庭の敷地には桃を始め桜、杏、黄水仙、沈丁花、スイトピーなど色とりどりの花が植えられている。
中には患者が持ち込んだのもあり、これからの季節は楽しませてくれるだろう。
「なるほど〜。おばあちゃん心に余裕ができたのかあ」
「だといいんですけどねぇ」
ここは末期の癌や命の先が見える人に穏やかな最後を――という趣旨で作られた場所だった。
痛みの緩和はするが、それ以外の医療処置はしない。管に繋がれた生活よりも自然に近い死を迎えたい人が入院する終の住み家だ。
祖母のタエも末期の皮膚癌で去年の十二月から入っている。転移もみられ、手術すれば延命はできるのだが高齢の彼女はそれを望まなかった。
「でも本当にここに来て元気なったみたい。おばあちゃんねえ、家では閉じこもっていたんですよ。そしたら足腰も弱っちゃって……寝たきりになる一歩手前だったなんて信じられないわあ」
タエは病気を気にしてか日課である近所の散歩をしなくなった。
たぶん癌そのものより、周囲のかける言葉が重荷になっていたのだと思う。タエは痴呆の兆候はみられず、しっかりと考えることができたから。
「だけどここに入って顔つきも柔和になったし……なんでだろ」
あるがままに受け入れる姿、ともまた違う気がする。素に戻った感じ。
力まず慌てず本当の自然体になった祖母。
病気が病気なのに何故か羨ましい感じすらしてしまう。
「あ、そうそう。そういえば最近、古い手紙を持ち出して何度も読んでらっしゃいますよ。それも元気が出たひとつの理由じゃないでしょうか」
看護婦は思い出したように言った。
「手紙? そういえば入院準備の中に大切そうに文箱を入れていたっけ」
ふと菜穂の脳裏に色あせた千代紙で出来た手作りの箱が浮かんだ。長い間しまい込んでいたらしく、菜穂が目にするのは初めてだった。聞いてみたら「手紙を入れているの」とタエは答えた。
思い出を読み返すのだな、と菜穂はその時に漠然と考えたことを記憶している。
「ラブレターじゃないでしょうか?」
「まさかぁ」
「ふふふ。タエさんだって若かりし日はあったんでしょうしね。お孫さんのあなたからは想像できないでしょうけれど、お祖父様とは大恋愛だったりして」
確かに最後に手元に置きたい手紙、というのはそんな気もする。しかし菜穂はどうも納得できなかった。
「え〜。じいちゃんとですか。どうだろ。確かに想像できないわあ。近寄りがたい人だったし」
10年前に亡くなった祖父は記憶の中では、質実剛健と男尊女卑が同居しているようだった。
オノレにも他人にも厳しく、祖母は苦労したと菜穂は母から聞いたことがある。
「一度たずねてみてはどうでしょう?」
「そうね。おばあちゃんのロマンスかあ」
急に興味がわいたが、なんとなく教えてくれない気もした。心の奥に秘めているのが祖母に似合っている気もする。
「じゃ、そろそろ探しに――」
ちょうどむかえに行こうかと思っていると庭伝いの奥の廊下から小さな足音が聞こえた。
ゆっくりと、しかし確かな足音だ。
「――あ、おばあちゃんっ」
角を曲がる姿が見えた。
彼女は白くなった髪を後ろに流し、山吹色のパジャマに白いガウンを羽織っていた。顔色は悪いが手にした杖でしっかりと歩いている。
タエは菜穂の顔を見るとモゴモゴと口を動かせ、微笑んだ。そしてよく来たな、と言う代わりか片手を前にゆっくりと伸ばしている。
しわだらけの手は震えているが、確かに菜穂に向けられていた。
「おかえりなさいっ。庭は楽しかった?」
廊下に並んだ大きな窓は幾筋もの光を放ち、やわらかく影を作っている。
春の風はカーテンを微かに揺らし頬を撫ぜゆき過ぎる。
残り香か、ふわりと桃の花が匂った。
◆
タエさん。
急に昔の話をしてご迷惑だったでしょう。すみません。桃を見ているとなんだかとても懐かしく思い出されたものですから。
実は昨日、僕に赤紙が来ました。
こんな田舎の、僕のように非力で何の取り得もない男に来るなんて、情勢は思ったよりも悪いのかも知れません。
でもそんな今なのに《お国のため》と考えることができないのですよ。
日本国民として失格ですね。
もう三日後にはこの村を発たなくてはなりません。貴女がこの手紙を受け取る頃はもう一兵士です。
だからというのではないのですが、僕はこの戦う動機をタエさんの住む場所と村を守るためと置き換えました。
山も田も川も。それに生える木や草や魚、住む人。そしてそれに付随する思い出すべてを守るために僕は戦います。
そしてできれば…戦争に勝って戻って来たら、できればもう一度、あの花の下で会っていただけますか。
あの花の下、もう一度ツボミを口に含み、笑っていただけますか。穏やかな春の元、語り合っていただけますか。
ええ、絶対に。
絶対に生きて帰って来ますから。
桃の花が香る頃に僕は。
読んでいただきありがとうございました。
完全なフィクションですが
日本のどこかにタエさんはいそうな気がします。
本当に。
……ああ
今夜は花冷えです。
花言葉――桃(よい気立て・あなたに心を奪われた)