八話 『 コミュニケーション 』
「……」
ベッド横のパイプ椅子に座りながら天月天は視線を下に向けた。
視界の中心にとらえるのは自分の拳。
それを見ながら考えるのは、これからのこと。
(来ないの、かな)
つまりは、警察が。
本来病院では、その怪我に事件性があると判断した場合、当人たちの承諾の有無に関わらず警察へ通報することが義務付けられている。
今回の天月天と『赤錆』の場合には、二人とも明らかな殴打による傷や内出血が見受けられる上に、車にはねられた様な全身を強打した跡まである。さらには女の子である『赤錆』が下着姿のまま、血まみれの巨漢に運ばれてきてもいる状況だ。これで警察に報告しないなど、怠慢でしかない(と言っても、天月天にそう言った知識はなく、ただ自分たちが血まみれだったから警察は来るんだろうと思っていただけだったが)。
だが、それにしては遅かった。
もう病院に来てから随分と時間が経っている。
いくら朝が早く、当事者の一人が大けがをしていて動けず逃げられない状況だからと言っても、まさか朝ご飯を食べて歯を磨き、ワイシャツにアイロンをかけてからくるような仕事はしないだろうと天月天は考えていた。考え方がどこか逸脱していても、天月天にだってそのくらいの常識はある。
天月天は小さく首を傾げてから『赤錆』の顔に視線を移し、吐息を一つ溢した。
「来ないなら来ないでいいけど……まあ、無理だろうなあ」
自分の言葉に頭を振る天月天。持ち物が下着だけで身分を証明する物の無い『赤錆』と、その『赤錆』を拉致している自分では、来ないなら来ないで都合がいいのも間違いではないのだが、考えてみれば自宅アパートが半壊している時点で事情聴取があるのは確定している。
「ガス爆発ってことにならないかな、あれ」
そうすればこの怪我にも苦しいなりに説明はつくと思うんだけど――などと考えるが、ガス爆発に必要な焦げ跡や、諸々の痕跡を考えて無理だと判断し、天月天は窓から吹き込む風に息を混ぜる。
(逮捕とかされるのかな?)
緊張もなく半分以上諦めながら、それでも逃げ出すこともせずに、パイプ椅子をその巨体で軋ませている。警察が来たらどうなるのか考えた上で、ミシギシ……と。
けれど――天月天と言う人間は、いつまでも悩み続ける様な繊細さを持っていない人間である。
だから彼は「そう言えば……」と、ループ気味の思考を簡単に放り出すことが出来るのだ。
「この子、言葉が変だったな」
天月天は、寝ている所為か随分と幼く見える『赤錆』の顔を見ながら、起きていた時の硬く古い、小生意気な口調と言葉を思い出した。
『余計な問答は省いていい。『対を成す者』に用があるならはっきり言ったらどうだ』
引っ掛かるのは『あうん』という言葉。
「人の名前、なのかな? 『こんにちは、あうんさん』、みたいな。でもなんかしっくりこないな」
そして『あうん』で知っている言葉を思い出してみる。
「あうん、あうん……〝これからあいつに『あうん』だよ〟? いやいや、これじゃない。言ってた内容を考えたら、何か、や、誰か、の名前だったと思うし。盟主……名将、えーと、そう、名刺とかいうやつだ」
名詞である。
しかし、天月天が知っている〝あうん〟という言葉は、寺や神社にある〝阿吽像〟とか〝狛犬の口〟くらいのことで――。
「俺と、神社やお寺に接点なんかないし、用も無いんだけどな……」
だが、そこは天月天。
天月天だからこその答えに行きついて見せちゃうのである。
「……はっ!」
眼を大きく開き、驚きではなく歓びに打ち震える。椅子を蹴立てる勢いで立ち上がり、あまり変化の見えない表情の中に、上気した頬で少しの興奮を表しながら言った。
「まさか、結婚は神前式が良いっていう遠回しなアピールなんじゃっ! だから〝あうん〟に用があるならなんて言ったんじゃっ!」
だが、突飛すぎるその思考は。
女の子の冷たい声が病室に響くことで、中断されるのだった。
「勘違い野郎の痛い妄想は聞き飽きている訳で」
突然の声に天月天が病室の入り口に目をやれば、胸元が大きく開いたサンタのコスチュームを着た十代前半くらいの女の子が、小さいのにやたらとお高いアイスクリームのパックと木のヘラを持ちながら、つまらない物でも見るような眼つきで突っ立っていた。
「しかも先輩みたいな可愛い女の子が眠るベッドの横で何言っちゃってんのど変態って感じっす。鬼畜っすか? 本当、男ときたら性欲の権化な訳で……」
女の子は木のヘラでアイスを掬ってパクリと一口。そのとき開いた胸元に数滴アイスが垂れて僅か体を震わせた。指先で胸元に垂れたアイスを拭い口に運ぶ女の子は、やはりつまらなそうな表情で、スタスタと『赤錆』が眠るベッドへ寄って行くと、天月天に、尋ねる。
「で、どんな訳で?」
「あー、っと……?」
沈黙が流れた。五秒ほどだ。
呆れたような息を吐いてから、女の子はもう一度尋ねた。
「で、先輩の状態は、どんな訳で?」
「えーっと……?」
だが、幾ら問いを投げられても、天月天の頭に浮かぶ疑問符は解消されない。
頭に浮かぶ疑問符の正体など簡単で、ただ〝『赤錆』がどんな状態なのか分からない〟から言葉に詰まっているだけだ。+α、友達がいない天月天は対人関係を円滑に進める術を知らないから、『まだ医者の診断待ちなんだ。ところで君は誰なんだい?』という、見知らぬ少女に対しての当たり障りのないコミュニケーション能力を発揮できないのだ。
そして、いくら見知らぬからと言って、見るからに少女である来訪者に対して「あー」や「えー」しか言えない大男など、格好の良い物ではない。
だからサンタコスの少女の目がさらにつまらない物でも見る様に呆れた光を湛えてしまっても、さらには残念さが伝わる溜息を吐かれてしまっても、仕方のないことだった。
(こいつ、ちょーつかえねぇっす……)
次回 「 超常の常 」