七話 『 柔らかい風 』
汚い夢だった。
『赤錆』が初めて引き金を引いた時の、あまりに軽いのに、とてつもない衝撃が襲ってきた、少女のような見た目を体現する年齢から見ても過去というに十分過ぎる年月の昔に体感した、おぞましい記憶と――。
暖かい夢だった。
『赤錆』の記憶にも残らない程の過去に感じた温もり、眼を開いてもそれが何かという事さえ認識できないほど幼い、なのにそれが自分を産んだ者だときちんと理解できる、不思議で、何故か涙すら出てくるような安心する記憶が――。
一体となった、混沌とした夢だった。
幼い頃から繰り返される夢の中では、初めて『土を食む者』を撃ち殺した時の映像がリピートされている。
掘建て小屋の中央に、大人が三人でやっと動かせるような石造りの椅子が鎮座し、その椅子にフーフーと唸り声を上げる『土を食む者』の女は拘束されていた。真っ白な拘束衣と、麻袋を頭に被された状態で、身じろぎ一つせずに。
そんな人間の形をした化け物を、『赤錆』が撃つ。
真正面から銃口を額に押し付け、小さな手で引き金を引くことによって、『土を食む者』という人間だったものを殺すのだ。
一連の行為の結果である殺人を、見届ける周囲の人間は三人。
片眼鏡を悠然とかけ、灰色の髪を後ろに流す、泰然自若の体で眺める初老の男。
科学者然とし眼鏡を掛ける、湿った様な金褐色の髪色をした、頬肉の薄い女。
緑色のサングラスと真緑色の服を上下に合わせて着るような、非常識な男。
一人は傲岸に、一人は冷徹に、一人はにこにこと笑いながら、人の形をした何かを撃ち殺した『赤錆』を、言葉一つなく眺めていた。
そして奇妙なのはここからだ。
その夢では、『赤錆』は麻袋の中など恐ろしくて見たことはなかったにも拘らず、その中に入っている人間の顔を知っているような気になるのである。
以前、顔も知らない母親に抱かれていた時の、何が悲しくて泣いている訳ではないのに涙が出るような温もりを麻袋の人間に感じ、しかし自分が放った銃弾によって床へと零れる血液と一緒にその温もりも流れ出ている様な、強烈な喪失感に襲われる。
夢によって、何度も、何度も。
今現在、目を瞑って夢を見ている『赤錆』から見れば、あの時どんなことが行われたのか理解できる。記憶にも残らないほど幼いころに『対を成す者』という組織に拾われて、『土を食む者』を、ひいては『誘惑者』と呼ばれる〝人間を人の枠から外す人外〟を、討ち滅ぼす為の訓練だったのだろうと納得も出来る。
けれど、自分が撃ち殺した『土を食む者』を相手に、夢の中の幼い『赤錆』は、遠くぼやけた温もりを感じながら、銃を握る手をガタガタと揺らしているのだ。
だから苦しむ。
符合しない過去と、嫌に生々しい記憶が、夢という形を取ってぬるりと纏わりつく。
目が覚めれば「嫌な夢だった。何だったんだ、あれは」と思いながらも、十分もしないうちに忘れてしまうものだが、夢を見ている『赤錆』にとってはいま実際に体感している現象だ。夢の中で膝を折り、泣き出しそうになる瞬間にリピートされる現実なのだ。
延々に、本当に永遠に続くのではないかと感じる時間の中で、繰り返されているという感覚だけが抜けだして、嫌な想いだけが蓄積されていく。
もう何度目かもわからない(もうイヤだっ!)という叫びが頭の中で木霊と響き――、
ふと、感じる。
がっしりとした何かに包まれている安心感。
そして唐突に夢の中で画面が切り替わる様に映像が真っ白に染まると、水の中をゆっくりと浮かんでいくように、『赤錆』は悪夢から抜け出していった。
♀+♂
天月天に趣味というものはない。本当に何もない。そもそも、今まで『何か』に対して興味というものを持てなかった天月天に、趣味を持てという方が酷な話なのだから仕方もない。
今日、拳銃を突きつけてきた少女に対して初めて興味を覚え、初めて少女を押し倒して、初めて少女を拉致して、初めて少女にプロポーズした。
そして、今日初めて、誰かに対して心配することが出来た。
そんな天月天に趣味という、興味から派生する行動など生じるはずもない。
だからと言うのもあんまりな言い様だが、天月天に友達と呼べる人間はおらず、故にと言うのもあんまりだが、どう見ても重症の『赤錆』を病院に連れて行くのに救急車を呼ぶという考えはなく、二人ともボロボロの格好のまま一様知っていたタクシーを使って病院の救急センターに駆け込むと、趣味というものが無いせいで殆ど働けば働いた分の金銭が増えていく天月天は、部屋にあっただけの(銀行に預けておくことをせず一斗缶の様な梅干し瓶に詰まった)一千万円近い金額を病院の受付に叩き付けて『赤錆』の治療を頼んだ。見せつけられた金銭の量も受付の女性に相当な衝撃を与えたが、なにより朝早くから駆け込んできた大柄な男が運ぶ下着姿の『赤錆』の格好にいっそうの衝撃を受け、しかも運んできたその男も無理やり引き裂かれたようなボロボロな服を体にぶら下げながら顔中血まみれだったものだから、朝早い病院の救急受付が騒然とするのも無理はなかった。
そして。
体のあちこちの治療と検査と入院手続きなどで九十分ほどの時間が取られ、社会が通常運転になるような時分。
天月天は七階建ての最上階、『赤錆』が入院着で寝かされている入院患者用の個室に居た。
開かれた窓からは緩やかな風が吹き込み、顔に巻きつけられた包帯の端がそっと揺れていた。
次回 「 コミュニケーション 」