五話 「 組織の理由 」
あまりの衝撃に、ミルクを飲む手が途中で止まり、猫は口を半開きにさせたままで固まった。
「にゃん、だとう? ニャーがスープを飲む姿が戦っているように見える、にゃと……?」
「あれ、違うよ。言葉が足りなかったかな。えっと……地下にあるこの組織は、『土を食む者』っていう化け物を退治する為に、『AA』能力者が集められたものだろう?」
「う、うんにゃ。そうだにゃあ」
「なら、どんな理由があって、化け物は殺されなきゃいけないって事になってるんだ?」
こんどこそ。『百獣疎通』の思考に完璧な空白が生まれた。猫の丸い眼が見開かれる。
それは天月天にとって純粋な疑問でしかなかった。
強い力を持った『土を食む者』という化け物がいる。
それを生み出す『誘惑者』という奴もいる。
それらは表の社会にとって脅威になり、もし奴らが実際に牙を剥いたのなら甚大な被害が出るだろう。
それくらいなら直接殴りあった天月天でも分かる単純な事だ。
けれど。
天月天がここで聞いているのは、最終的な危機のことではない。
今までの人生で、超人的な身体能力を持った走れるゾンビ系モンスターが暴れた事件など、たったの一度すら聞いたことが無いから尋ねているのだ。確かに天月天は新聞もテレビも見ない社会不適合者だ。しかし、幾らなんでも街頭で垂れ流されているニュースくらいなら見たことはあるし、クラスに友達がいなかったからと言って噂話がまるで耳に入らなかったわけじゃない。であれば。『土を食む者』の様な化け物が暴れた話しが何かしらの情報媒体で伝播していたら、記憶の端くらいには引っ掛かる。
なのに、それが無いのはどういうことなのか。
なら結論として。
――『土を食む者』という化け物は、殺さなくても何ら害の無い相手なのではないのか?
そう思っての質問だったのだ。
しかしそれは、『百獣疎通』にとって、いやさ、『対を成す者』で成長してきたものにとって、理解の難しいことでもあった。だって、そもそもがない。天月天のその発想は、【『土を食む者』は殺されるべき対象で、それを忠実にこなす者こそ優秀な人間ですよー!】と言われる世界では、生まれることのない思考なのだから。
だから『百獣疎通』の思考に生まれた空白は埋まらない。
半開きになった口から涎だって垂れる。
「ああ! 勘違いしないでほしいんだけど、だから殺さなくてもいいだろって話じゃないんだ。実際に被害が広がってからじゃ遅いから駆除対象になる害虫や害獣、ウィルスを殺す為に予防接種で抗体を作るっていうのは俺にだって理解できる。それが人の形をしてようが結局は同じ目的、同じ理由で『対を成す者』って組織は出来たんだろうってことも」
「にゃ、にゃあ。なら、何でそんな事を聞くのにゃ?」
「だからこそだよ。『土を食む者』と戦う理由を知っておきたいのは」
カラン――と。
オレンジジュースが入っていたグラスの氷が動いた。
「表向きの綺麗な理由以外を知ることが出来れば、『赤錆』が欲しがってる力の形がはっきりすると思うんだ」
数秒だ。
数秒の間、ブチ猫は視線を天月天に向けたまま体の動きの一切を止めていた。
スプーンを皿に戻し、一度ゆっくりと瞬きをする。
(にゃんと、という感想にゃねー)
息を吐き、ミルクの真白い水面に目線を落として、長い尻尾を波打たせるように動かした。
(一途と言うかなんというか……まさか、そんな答えが出てくるなんてにゃあ)
要するに天月天は、『赤錆』を知る所から始めようとしているのだ。
一緒に居たい=拉致。
そこから考えれば随分な進歩だろうが、初めの一歩が突拍子もないからか、『百獣疎通』は妙な感覚にとらわれていた。
(まあ、大概の人付き合いは互いを知るところから始まる、って前提を全部すっ飛ばして拉致からのスタートだったしにゃあ。いや、この考えに至れたことを今は褒めるべきか……?)
それは、切り口として『百獣疎通』にはなかった新しさがあった。
戦っている理由。
それは、『土を食む者』と戦い殺し合う事が常識として染み付いた世界へ、一石投じる様な言葉だ。あるいは原始の海から陸上へ這い出た最初の両生類の様な思考だったのかも知れない。新しい世界に飛び込んだ者が抱く当然の疑問。国や地域ごとに食事のマナーが異なることを知らなかった者が抱く、驚きに似た感情が、『百獣疎通』の胸に新鮮な風を吹かした。
(ああ……単一の言語が己の不完全さを証明できない事に似てるかにゃあ――まあ何にしても。この巨漢がせっかく自分にはにゃい新しい世界に足を踏み出そうとしてるんだ。その新しい世界の先住は歓迎してやらにゃいといけないよにゃあ)
知らなかった事を考える事は出来ず、考えることが出来なければ理解する事も出来ない。
文化の発展に必要なのはいつも、異端児の突飛な発想や、異なる文化を持つ異人の来訪だ。
そして今回、天月天の言葉は、『百獣疎通』にとってのまさにそれだった。
『百獣疎通』はWのような口元をくにゃりと曲げると、視線を天月天へと持ち上げて「にゃふふ」と笑った。
「お前は利口な馬鹿にゃね」
「利口な馬鹿……? 初めて言われたよ」
「けど、馬鹿にしているんじゃあにゃい。感心しているのにゃ。お前の様なやつは私の世界にいなかったからにゃ」
それから、とても楽しそうに髭を動かして、
「感謝するにゃよ、天月天。思考ゲームは最上の褒美にゃ。お前の質問には知る範囲で正確に答えようじゃにゃいか」
今まで上品に飲んでいたミルクの皿を抱えるように持ち上げると、口を付けて一気に飲み干した。ぺろりと口の周りを舐めて、猫特有の何故か妖艶さを感じてしまう瞳を細めた。
「さて、どこから話したものか……そうだにゃ。まずは『誘惑者』と『土を食む者』が現れた最古の文献から話そうか。我々『AA』能力者と奴らの争いの歴史をつまびらかに、にゃあ」
「頼むよ、『百獣疎通』。ちゃんと聞くから」
「にゃあふふ、飽きるんじゃにゃーよ?」
そして、天月天という巨漢を受講生にした、ブチ猫の長い講釈はカフェのテラスで始まるのだった。
……と、その前に。
「ところで、『赤錆』が力を求めてるって、なんで分かったにゃ?」
「ん、あれだけ殴られれば嫌でもわかるだろう?」
猫の表情が呆れた様に崩れた。
「察しが良いのか悪いのか、分からないやつにゃねぇ……」
猫の溜息にもう一つ年輪が加わった。
♀+♂
残り時間 四時間四十四分
その者は上空一〇〇〇〇メートルを歩いていました。
集まり続ける落とし児達は五〇〇を超えて、震度計に不気味な揺れを検知させます。
次回 『 事実の漂白 』




