二話 「 部屋と弁当 」
【Rust】。簡単に発音すると『ラスト』。意味は錆。特に金属に浮かぶ錆の事を言う。
彼女は「それが私の名前だ」と、そう言った。
「この髪の色から取られた、らしい。もちろん本名じゃない。好きに呼べ。私は私という認識が出来ればそれでいい」
ボロアパートというほど古くない建物の201号室に置かれた、コタツ布団の掛かっていないコタツ。それを前に座る二人。ぽつぽつと会話らしくない会話をしながら三十分が経っているが、これといった進展はない。室内には、服を置いておく為の『鉄パイプを無理やり曲げて作りました』といった雑なラックとベッドの他にはほとんど物が置かれておらず、その簡素感が余計に場に流れる空気に陰鬱とした重さを与えてもいる。
『赤錆』は、着ていた不自然に黒い服を脱がされ、140前後しかない筋肉質で小さな体をピンクの下着姿にさせられたまま手足を縛られて、この部屋へと運ばれていた。
もちろん、死ぬか結婚か、という選択で後者を選んだからだが、現状の屈辱はすさまじい。先ずは生き残る選択をしなければ何も始まらない。逃げるにしても、殺すにしても、助けを待つにしても。すべては生き残ってからだ――と、そう理性で抑えていても、視線の鋭さまでは隠し切れない。
一方、腹に一物抱える『赤錆』を前にして、天月天は鼻から息を抜いていた。
「いい加減、その眼をやめてくれないか?」
理由は簡単。
「なら、服と銃を返せ。私を自由にしろ」
このアパートで『赤錆』をリュックから転げ出してから、闇夜のサバンナで肉食獣が標的に向けるような目を向けられているからだった。
「大体、何故お前は私をこんな所まで連れてきた。私を生かしている理由は何だ。いやそもそも――お前は何なんだ」
「って言われても。俺から言わせてもらえれば『一般人だ』と言いたいんだけど」
「嘘をつくな。一般人が殺しを見て普通でいられるはずがない」
「いや、まあ、そうかもしれないけど……」
天月天は後ろ頭を掻いてから、「そうだなあ」と言葉を続ける。
「お前はなんだ、か。難しいことを聞くな、『赤錆』は。て言っても、子供の頃から自分が普通じゃない事は分かってたんだ。さっき君が人を殺していた時を思い浮かべて貰えば分かると思うけど、俺は生まれてから今まで何かに大きく驚いた事や、体が震えるほど怖いって感じたことがない。普通なら殺人現場を見れば身をすくませたりするらしいけど、俺にはそれが分からない。たぶんそれは、中学生くらいになってから負けた事がないことと関係しているんだろうけど、ちゃんとした答えを俺は知らないんだよ。だからこうして君を倒して、ここまで連れて来られたんだけど」
「負けたことがない……それは喧嘩で、という事か? ふん、幼稚だな」
「うん、確かに。喧嘩に負けたことが無いなんてちっとも自慢にならない……けど、それとも少し違っていてね。俺は体を使うことなら、どんな物でも負けたことがないんだよ」
「はあ……?」
訝る表情の『赤錆』に、「例えば」と天月天は少し考える間を開けて、口を開く。
「学校の体育祭の競技でも、昼休みのドッジボールや鬼ごっこでも、授業中の柔道や剣道でも、何故か相手の動きが分かる。分かるから負けない。二割程度の力を出せば大抵勝てるんだ」
「二割の力? 大口もそこまで行けば――」
「って言っても、いままで全力を出して何かをした事が無いから、それが二割なのかもわからないんだけど……俺は最初、みんなそうなんだと思ってた。みんな相手の動きが分かっていて、その中で先の読みあいに勝った側や、相手より筋力が上の相手が勝つものだと思ってた。けど、違ったらしくて。相手の体がどう動くか、普通は分からない。それに気づいたのは、小学校の高学年の時。学校側から招かれたプロの空手家の選手生命を奪った後だったよ」
ほう、と息を吐きだして、天月天はリュックから弁当と割り箸、そしてウォッカを取り出すと、包装を破り捨てながら続ける。
「どうやら俺の身体は普通じゃないらしいんだ。学校でやる一般的な身体能力の検査でも常に最上位の成績だったし、それが理由でどこかの病院で調べてもらった結果じゃ、骨や筋肉はもちろん、心肺機能や五感といったあらゆる部位の性能が桁違いだって言われた。これは断った話だけど、その時、学会に発表したいから体を調べさせてくれってしつこく言われた位だから、本当に俺は人間の形をした何か別の生き物なのかもしれないんだ。だから『お前は何なんだ』って聞かれても、正直答えに困る。俺も自分が何者か分からないんだから」
大盛り弁当の蓋を外し、その上にシャケ、切り干し大根、ジャガイモコロッケと米を半分程盛り付けると『赤錆』の方へ押しやった。それからもう一度リュックをガサゴソと探ってはさみを取ると、『赤錆』の方へ移動する。
『赤錆』の鋭い視線がはさみに集まった。
「……何をする」
「見て分からないかな?」
「ああ、わから――」
天月天は言葉が終わる前に背後へと回りこむと、流れるような挙動で両手を拘束していた塩ビ製の結束ひもを断ち切った。
パツ、という軽い音と一緒に両手の自由が戻る『赤錆』。
その瞬間『赤錆』の思考は大きく乱れ、
「手が使えなきゃ、朝飯もろくに食べられないだろう?」
天月天の一言で、その混乱は極まった。
さっきまで触れれば切れるような鋭い視線を作っていた眼は、真ん丸に開かれていた。
次回 『 やるかたない 』




