六話 「 猫の溜息と絶対強者 」
声が聞こえた途端、口角をウニャ! と引きつらせ、両の前足で頭を抱える猫。わすれてたにゃー……! と尻尾が縮こまる。
『ちょうどいい。天月天、私の相手をしろ』
殺意にも似た怒気を孕む『赤錆』の声。演習場での一対一を申し込む。
それに対して猫が慌てた。
「にゃっと待つにゃ! 演習場での対人模擬訓練には正規の書類が最低三枚は必要で、それが『AA』使用の訓練なら現場の立会人として二佐以上の人間が……!」
『うるさい。邪魔をするな。私はそこの男と話している』
「ニャーは『赤錆』の友達にゃのにっ!」
猫は足元をパンチした。
『どうした、私を探していたんだろう? それとも、今朝の身勝手さは猫の言葉で消え失せたか。猫の言葉にも悖る想いだったのか、私への感情は。つまらない男だな』
「ニャーはれっきとした人間にゃ!」
『うるさい。邪魔をするな。そんなこと分かっている』
「ぎにゃー、其処に痺れる憧れるにゃ!」
猫は半分泣きながら再びネコパンチを繰り出した。肩を落としてため息を吐く。
腕も思い切りも良い分独断専行に陥りやすい『赤錆』の悪い癖が出たにゃ、と。
だが、こんなこと一々許していたら猫は減俸されてしまう。『AA』能力者の戦闘なんて何が起こるか分からず、下手をすれば受け取る給金が請求書になる可能性だってある。
いいや、この施設自体が陥没して生き埋めなんてことも……。だから猫は言う。
「駄目にゃ。幾ら『赤錆』の言う事にゃからって、ニャーが何でも許すとは――ぎにゃ」
「俺からもお願いするよ」
天月天が猫の首を摘まんで、ぶらんとぶら下がる体を顔の前に持ってきた。子猫のようにニーと不満が漏れるなか、言葉が続く。
「これは『赤錆』からのお誘いだ。女からの誘いは蹴っちゃならねぇ、って前の職場のおっちゃんも言ってたし、何より、猫が言うとおり俺が『赤錆』に嫌われてるなら、嫌ってる理由を聞きたいんだ」
「それは模擬戦の中で聞かなくちゃならないものではないにゃ……南側のA区画にカフェがあるからそこで静かに語らうべきにゃ……」
「猫の言葉を借りるなら、拉致した俺と、拉致された『赤錆』が、カフェで静かににおしゃべりする事はないんじゃないか? それが出来るなら、それでもかまわないんだけど」
ぶら下がった猫は器用に口角を曲げて目を逸らしてみせた。
「じゃあ、決まりだな」
「にゃあ……」
猫の溜息に年輪が一つ加わった。
♀+♂
残り時間 八時間七分
その者は上空一〇〇〇〇メートルを歩いていました。
地中を進むその者の落とし児たる者達の数は、二百を超えていました。
♀+♂
第三演習場――高原ステージ。
そこは八十メートル四方と演習場の中では一番狭い。多少の地面の起伏は広原の再現として備わっている。見渡す限りなにも無い空間は、『AA』能力を十分に発揮できるように設計されていた。
そこに立つ、二つの影。
「来たか」
赤茶けた髪と色の薄い赤い瞳を持ち、小さいけれど強靭に引き締まった体躯の『赤錆』は、大きいTシャツとショートパンツという格好で俯いたまま言った。両手に持つのは、技術改良で威力と扱いやすさを向上させてある鈍器の様な銃。体から溢れる敵意は目に映るほどに酷い。
そして、五メートルほどの間隔をあけて天月天が対峙する。
「来たよ」
余りに普通に。あたかも『赤錆』が握る拳銃が見えていないような調子で、
「俺は『赤錆』に嫌われたままは嫌だから。『赤錆』と一緒に居たいから」
天月天は言う。
「だから、話しをしに来たよ」
『赤錆』の顔が跳ね上がったのは、この時だった。
銃口が天月天の心臓をとらえる。
「黙れ!」
叫びと共にトリガーが引かれ、銃声が鳴り響いた。
ダンダンダダン、ダァン、ダダン! と。
けれど。
「黙らないよ」
真横からだった。
「!」
たった一歩の移動が『赤錆』の目には映っていなかった。
「俺は『赤錆』が、きっと、好きだ。好きや嫌いって感情に覚えがないけど……でも、一緒に居たいから。きっと ―― 」
ダァンッ!
瞬間的に視野の中央に視線が寄り、コンマ一秒以下の認識の中、弾丸が銃身を駆け抜ける光景が脳裏に焼き付く。
そうであっても――。
銃弾に込められた火薬が燃え尽きる前に、天月天は立ち位置を変えている。
「話をしよう。今朝の事は、たぶん、俺が悪かった。死ぬか結婚か、なんて言い過ぎだったと思う」
「何を!」
『赤錆』は背後から聞こえてくる声に素早く銃口を向け、
「今更!」
言葉と一緒に何の躊躇いもなくトリガーを引いた。
左手から右手。二丁の拳銃から流れる様に銃弾が飛び出す。
弾は銃身に刻まれたライフリングに沿って猛回転し、空気を貫きながら空間を走った。
天月天の眼球の一ミリ手前に弾丸が迫り、水晶体を覆う膜が攪拌された空気で揺れる。
それでも。『AA』能力という人外の力が、その危機を視認させ、理解させ、判断させて、普通なら死んでいる土壇場を生き延びさせるという異常を引き起こす。
「いま『赤錆』は怒ってるだろう? その理由を俺は聞きたいんだ」
「……ぃ――ッ!」
鼻先がぶつかるような距離に天月天の真っ直ぐな視線が現れた。
そして右腕を掴まれる。女性の物であってもしっかりとした筋肉に覆われている『赤錆』の腕。にもかかわらず、ただ天月天が掴んだだけで(潰される!)と本気で思える恐怖が背筋を這い上がった。今朝、『土を食む者』に殺されそうになった時でも感じなかった、肉体的上位種に捕獲された獲物のような、総毛立つような危機感。
「お、おおおおおおおおおおおおおおおおぉ!」
自然と声が迸り、『赤錆』は、天月天の体を逆上がりでもするように駆け上がると、その顔面に蹴りを見舞うのだった――。
次回 『 信号 』