二話 『 映す瞳に映らぬ世界 』
第一に、『土を食む者』という直接的な敵がいる。
それは、生きる事に絶望した若い女性が、変貌する化け物である。
変貌する切っ掛けを与えるのは、生きる事に絶望した若い女性が抱える〝負の臭い〟を嗅ぎ取り、その人物に接触する『誘惑者』という存在だ。
『誘惑者』は、生きる事に絶望した女性に、一つの提案を持ちかける。
【――一年間の希望と、あなたの存在を、交換しないか?】
話を持ちかけられた人間は、その場で是非を問われる。
否と答えた人間には不敵な笑みと一緒に一輪のチューリップが贈られ、是と答えた人間には、その後一年間の絶対的な幸福と、一年後の『土を食む者』への変貌を贈られる。
それは、五千年以上前から始まった、今では世間から隠されて続く不毛な戦いであり、だからこそ『対を成す者』という組織は立ち上がり、『対を成す者』は『誘惑者』及びに『土を食む者』という敵対する者の様々な情報を知ることが出来た。
しかし。
それだけ長い間戦っていても、『誘惑者』が何故存在しているのか。『誘惑者』は何故『土を食む者』という化け物を生み出すのか。『土を食む者』を生み出す過程で、どうして『誘惑者』は一年間の幸福を人間に与えるのか等の事は分かっていない。
分かっている事は前述したことと、『誘惑者』は決して、絶望を抱いた人間の前にしか現れないという事だけである。
この世界に『AA』能力者がいる事にも、〝『土を食む者』という化け物に対抗し、最終戦争を生き延びる為に生まれてくる存在〟という、取ってつけた様な解釈は以前から根付いているが、本当の所は分かっておらず、上層部は何か知っているようだが、その情報が下まで降りることはない。――と言うのが、自分の事を『顔無し』と名乗った特務一佐の言葉だった。
「まあ、要するに。私達『AA』能力を持った『対を成す者』のメンバーは、その力を存分に発揮して『土を食む者』をぶち殺せ……それが、新たに参入したお前の、そして我々の仕事というわけだ。分かったか?」
そう言って『顔無し』はタバコを燻らせた。
場所は防衛省本省庁舎D棟地下百メートルに存在する空間の一つ。佐官クラス以上の官職になると与えられる執務室で、『顔無し』の持ち部屋だ。地下故に窓というものはないが、壁一面が大型液晶になっていて、広大な平原が映し出されている。部屋の中に執務机と二つのソファー、間に置かれた低いガラステーブルくらいしか置いていないからか、一見には家具だけが大平原にぽつんと取り残されているようで、解放感と一緒に妙な座りの悪さを感じる部屋になっていた。
ソファーに座る天月天は、ここに来る前に着替えた白無地のシャツとジーンズという格好で、こくと頷く。体が大きい以外に何の特徴もない容姿の天月天は、こういった格好をすると本当に特別な記号が〝大きい〟しかなくなってしまうが、実は顔に巻かれていた包帯が其処に在った傷と一緒に既になくなっているという隠れた能力が特別な記号として発揮されていたりする。
天月天は説明に対して返事を返す。
「まあ、一様は分かったつもりです。俺がしでかした事のお咎めが何でないのか、俺がどんな事に首を突っ込んだのか、これから俺はどんな仕事をするのか。それから……」
言葉に含みを持たせて動かすのは視線。向けるのは横。随分とソファーの端に寄った位置に小さな尻をちょこんと乗せる『赤錆』の方だ。
「俺が好きになった子が、どんな世界に住んでいるのかも、大体は」
視線を合わさないというよりも、視界に天月天を入れないようにしているのだろう事が窺えるような顔のそむけ方で、『赤錆』は着替えた黒のビッグTシャツとショートパンツという格好でフンッと鼻を鳴らした。体のあちこちに見える包帯が痛々しい。
『顔無し』は僅か対照的な二人を眺める。
「……それでも好きと言い切るか。人の形をした生き物を殺している人間を相手に」
「それ以外の感情が芽生える理由がありません」
それでも、言い切る。『赤錆』は『赤錆』だ、と。
『顔無し』は硫酸で溶けた様な顔の右側でニヤと笑って、ガラスのローテーブルをはさんだ反対側のソファーに体を沈ませた。足を組み、咥えていた煙草で天月天を指す。
「だが、お前は『赤錆』の事を何も知らん。庇い立てする気はないが、人は当人を知らなきゃ好意や信頼を寄せ様にも寄せられんもんだ。なのに、お前は『赤錆』を拉致までした。普通はなら、自分を殺そうとした奴を拉致しようとは考えん。だから聞きたい。一体お前は『赤錆』のどこを気に入ったんだ?」
そんな質問に、しかし――天月天は考えるそぶりも無かった。
「どこという事はありません。だからって全部なんて言えませんが」
「そりゃそうだ」
「けど、あえていうなら〝眼〟です」
「眼?」
「眼を開けているのにその先を見ていないような、フィルターが掛かった眼――それがとても」
――胸を、その奥にある何処かを、締め付けたんです。
その答えを聞いて、『顔無し』は「ほう?」とニヤついた表情を引っ込めた。
唇の端で、タバコの火はジリと、その身を焼いていく。
次回 「 度を越えた変態 」




