二章 【 二人四脚 ―― 想像破綻 】 一話 「 顔のない顔 」
天月天が書類にサインしてから七時間ほど後の、午後三時過ぎ。
「三歳期の血液検査がされていなかった?」
防衛省本省庁舎D棟地下百メートルに存在する空間の一つに、女の声が響いた。
問いの形で発せられた言葉に返すのは、スーツを着る、こちらも女だ。
「はい。因子を持った母体が独自に出産し、最近まで知人に預けられていたと」
そこは、複数の会議室から始まって、各種研究室や装備保管庫と訓練施設、勤める者の宿泊施設に、ここが地下だと感じさせない高さ十m、敷地面積百m×七十m級の公園がある場所だ。
正式名称を――【『誘惑者』及び『土を食む者』に対抗する防衛省秘密機関総本部所】と言い、通称を――〝危険種特別対策委員会〟。俗称で――『対を成す者』と言った。三対一の割合で能力者と一般職員が、総勢で七百名ほど生活している地下施設である。
「恐らくではありますが、その為に三歳期の検査義務から逃れたのかと」
「そうか」
苛立ちが見えそうな息を吐いて言ったのは最初の女である。
名を『顔無し』と言い、顔の右側三分の二を硫酸で溶かしたような傷がある。苔むしたような色の帽子付き外套とニットのワンピースをロングブーツで纏め、ゆるくウェーブがかった鈍色の髪はいつでも油分が足りていないのか艶めきがない。総じて言うなら、古い、という言葉が頭に付きそうな人物だ。『顔無し』の言葉が続く。
「だから前々から言っているんだ。認定時期を増やせと。……現場を知らない高官のアホ共め。この国がいくら多方面に保証が利くからと言って、意思を持つ人間相手に、それだけで全てが思う通りになるわけないだろうが」
チッ、と舌を打ち、外套から取り出した煙草を咥える。すかさずオイルライターを擦るスーツの女は、煙草に火が付いたことを確認してから口を動かした。
「しかし、このような事態は稀です。前回起きたのは二十年前。未開拓地域や人口過多の国と比べれば、その確率は百分の一以下です。幾ら少子化傾向にあると言っても、小学校に上がる前の六歳期に採血を行えば、一回で途方もない国費になり、それこそ――」
「あー、わかってる、わかってるよ」
『顔無し』は羽虫を追い払う様に手を振った。そして下らなそうに顔を歪める。
「私はただ、二十年前の一件にもかかわっていたから、言いたくなったんだ。国の方針に口を出す気はないよ」紫煙をふうと吐き出して「それで、今度はどんなだ。衛星写真を見る限りじゃハッピーな野郎に見えるが?」
薄暗い部屋には数多い椅子と長机、その一つにプロジェクターが懐中電灯の様な光を発して、前にあるスクリーンに画像を映している。
とある河川敷と土手。
鬼のような形相の巨大な男。
奇妙なのは、その男の体が衛星撮影であることを鑑みても巨大すぎるという一点。
「三メートル……いや、四メートルはあるんじゃないか?」
「詳しい数値は未だ。南方への派遣員が『AA』能力者疑いと接触したようですが、なにぶん発見が今朝でしたので、増員を送る訳にもいかず強硬手段を取ることも――」
「――出来なかった、か」
口の端で揺れる煙草から一歩遅れて煙が踊る。実際に映像が取れている訳だから疑いどころの話ではないのだが、証明が出来なければ確定できないのが役所仕事だ。
(まあ確かに、人の拳がクレーターを作るってのは、これを見ていても嘘に見える。嘘に見えるほどの状況だからこそ、お役所仕事ってのに救われる時もあるってことか)
『顔無し』は表情を変えずにプロジェクターが映す画像を見やり、
「そうだ、今回の南方派遣に選ばれたのは誰だったか?」
「今回は『鹿角の男』と『贈盗の杖』、そして『赤錆』の三名です」
「ああ、あの三人か。報告によれば、その内の一人が奴に助けられたとか?」
「いえ、正確には『拉致された』が正しいようです」
「拉致? 『AA』能力者が? ハッ、それは笑えるな。……なんでそうなった?」
「画像の通り、今回の『土を食む者』は間違いなく『AA』能力者疑いが処理したようですが、そもそも、その状況に至るまでの道程に幾つかのイレギュラーがあった様です」
「というと?」
「三人一組の行動が義務付けられた今回の討滅作戦に、『赤錆』が突出した単独行動を取り、その所為で『AA』能力者疑いとの接触があったとか。本来なら、現場を見た目撃者は、『土を食む者』と一緒にその場で処理されるはずだったところを」
「そのギャラリーが『AA』能力者疑いだったから今に至る、なあ」
「はい」
ため息が漏れた。『顔無し』の手が煙草にのびる。
(まぁたあいつか。腕も思い切りも良い分、独断専行に陥りやすいのは知っていたが……まあ、今回に限って言えば能力者の発見に繋がっただけまだましだが……)
ふと気づいたような反応で『顔無し』は煙草の火種をもう一人に向けた。
「拉致、と言ったな?」
「はい。今回『赤錆』は、『AA』能力者疑いに拉致されたと、そう報告を受けています。何でも、『AA』能力者疑いの男に求婚されたらしく、その為の拉致だったようです」
聞いた途端、『顔無し』の目が限界まで開かれた。
「はあ、求婚だと?」
そして転瞬、大笑いし出した。
「なんだ、それは。意味が分からん! 一目惚れか? 一目惚れというやつかっ! しかも、我々が『土を食む者』を狩る現場に居合わせいたのに? だから拉致したってっ!?」
あーっはっははっはははっはばっがはっはっはーっ! と。途中で咽ながらそれでも笑う『顔無し』。
その横で、もう一人の女に着信が入った。地下百メートルにあるこの空間に居ても着信が入るのは、電波施設が地下に張り巡らされているからだが、それでも途中、地下故に有線回線を経由しなければならないから、多人数の同時通話となると繋がりにくくなる携帯を取り出して耳に当てた。
「はい、権堂です。――ええ、はい。そうですか、分かりました」
短い遣り取りの後、咳払いを一つ。ゲラゲラと笑う『顔無し』の注意を引いてから、
「今お話し中の彼らが到着したようです。これ以上の話には意味が無いかと。聞きたいことがあれば当人に直接お聞きください、『顔無し』特務一佐」
権堂はリモコンで画像を止めた。
ひとしきり笑う『顔無し』は、それでもおかしさの残滓が言葉の端々に残るような声で反応を返す。
「ああ……ひひっ、あー、分かった。そうしよう。これは直接聞いた方がおもしろ……いや、早そうだ。私の部屋に呼んでくれ。もちろん、ぷ、能力者疑いだけじゃなく、『赤錆』の阿呆も一緒だ。他の二人は待機で構わんよ」
ふふ、ははは、と。再び笑い出した『顔無し』は、長机に置いてある灰皿に煙草を押し付けてもう一人の女と部屋を後にした。
最後にちらと映った視界の端には、米コミの緑の巨人の様な変貌を見せる『AA』能力者が、『土を食む者』に巨大な拳を振り上げている姿が滑り込むのだった。
次回 『 映す瞳に映らぬ世界 』