一章 【 拉致誘拐 ―― 軟禁入省 】 一話 『 その名前、天月(あまつき) 天(そら) 』
彼は天才だった。
けれど、勉強は出来なかった。
学校ではいつも馬鹿にされる程だった。
彼はセンスがあった。
けれど、芸術に不得手だった。
絵を描かせても歌を唄わせても結局うまくはならなかった。
彼は素人だった。
けれど、玄人にも負けなかった。
二十一年生きてきた彼は、川に架かる薄汚れた高架橋下で偶然目撃したそれを、恐怖を覚える事もなく眺めることが出来ていた。
だから彼は ―― だった。
♀+♂
七月の後半。
天月天はその日、午前四時頃に夜間工事の仕事を終えて、帰路に着いていた。
人が一人入れそうなやたらと大きい荷物用のリュックを背負って、作業服という格好のまま安物の250のバイクに跨り、コンビニに寄ってシャケ弁と一番度数の高いウィスキーとライ麦製のウォッカを買い、たまには昇る朝日を見ながら飯でも食うかと、薄明るくなってきた東の空を眺めて家からほど近い土手に向かっていた。
途中、端末がポケットの中で震えたが、彼には友達と呼べる人間はおらず、携帯端末に登録されているアドレス欄には知り合い程度の連中が数人記録されているだけだから、完全に無視を決め込んでバイクを走らせていく。
(どうせ、いつか入会したゲームサイトからのメールだろうし)
ひょっとしたら家族からかも知れない、という考えが彼にはない。
児童養護施設出身の彼は家族というものを知らないから、その考えが生まれない。
田舎というほど田舎でもないが、都会というほど都会でもない、海が近い窪地の杵島市を通る国道から、名前も付いていない倉庫街の細い道をすり抜けて土手を上る。それからエンジンを切り、フルフェイスヘルメットからぼさぼさの短髪頭を取り出して、バイクをのろのろと押して目指すのは、高架橋脇に設置された簡素な遊具がある小さな公園。
(たまには外で、広々とした所で飯を食うのも悪くないよな)
自宅アパートの1K六畳の手狭な部屋で毎日一人食べるご飯より幾分か健康そうな選択にちょっとした満足感を覚える天月天は(と言っても、この土手沿いに自宅のアパートはあるのだから眺められる風景に大した差はないのだが)、白みがかった空を僅か見上げて再び足を動かしだす。
階段近くにバイクを止めて、以前と同じ轍を踏まないようにと種類の違う鍵を三つ付け、デイパックと呼んで良いのか分からない大きさのそれを背負い直して階段を下りていく。
(やっぱり、体が大きいのも善し悪しだな。部屋は狭く感じるし天井は低く感じるからなぁ)
そんなことを考えながら「高校の時には百九十八センチ位でした?」の身長がある天月天は階段を下り切った。実際には正確な数字なんて彼には分からない。自分はでかい。それさえ知っていれば彼にとって不都合が無いからだ。
「まあ、この体だから肉体労働でお金を稼げるんだろうけど……」
東の稜線が薄明るくなるような時間帯に一人ぼやきながら土手を下りきる巨漢。見ていて気持ちのいいものじゃない光景を作りだしながら、天月天は背負っていたリュックを下ろし近くのベンチへ視線を向けて足を出す。
ちょうど、そのときだった――。
バンッダダンッ! と。
遠近の狂った破裂音が、高架橋が作る色濃い影の中から聞こえてきた。
「ん……?」
それは、とても大きな音だった。
けれど、直ぐ近くの高架橋下の影の中から聞こえてくるにしては、もっと遠くから聞こえてくるようにも感じられるという不思議な音だった。
天月天は眉を寄せて、音が聞こえてきた方向を窺い、眼を眇める。
数秒立ち止まったままじっと見つめ、普段なら疼かない好奇心に背中を押されて高架橋の影へと足を進めた。
(たしか……あそこには不法投棄の冷蔵庫とかあったはず。ガス管でも破裂したかな)
スタスタと、何の警戒も無く、何の不安も無く、天月天は歩く。
日々を生きる一人の人間としての行動で、高架橋が作る濃い影の中へと入って行き、そして。
彼は日常を踏み外した。
「……?」
戸惑いは一瞬。
一見ではそれがなんなのか分からなかった。
だから天月天は、三秒ほどゆっくりと観察してから、「ああ、なんだ」と納得の声を上げた。
「死体か」
――そこには、高架橋が作る影と、下顎が吹き飛んでいるせいでぱっと見では性別さえ判断できない気持ちの悪い女性の死体が、スーツ姿で転がっていた。
「でろでろだな、勿体ない」
残った上半分の顔の様子からは秘書系お姉さんの容貌が想像でき、天月天はこの状況にも拘らず『勿体ない』と純粋に思った。綺麗な花が踏み潰されているのを見た、程度の感覚で。
本来なら悲鳴を上げる様な状況。だが、彼は僅か眉をひそめる程度の気持ち悪さ以外に恐怖らしい恐怖を感じておらず、落ち着いた様子で携帯端末をポケットから引っ張り出すと、あまりにも簡単に警察へ電話を掛けようとして――脇腹に硬い物を押し付けられた。
「動くな」
細い声が、天月天の胸より下から聞こえてくる。
影が色濃い左側から脇腹に押し付けられる硬いものを反射的に見て、彼にも本当に僅かばかりの、まつ毛を震わす程度の緊張が走った。
(……拳銃?)
銃の種類なんて一般人の彼には分からないが銃というものの形くらい知っていて、そして、目の前にある死体と符合させれば、それが冗談かどうかの察しはついた。
――ああ、殺人現場に居合わせたのか。
彼は静かにそう思った。
「何者?」
脇腹に硬い銃口を押し付けてくる細い声の主。
少しだけ首を動かし、それから限界まで眼球を動かして斜め後ろに居る声の主を窺ってみれば、それは背の大きい自分と比べても随分と背の低い外国の女の子のようだった。
不自然に黒過ぎる服。赤茶けた髪に細い肩。
それに反比例して、しなやかな筋肉が服の上からでも分かる程度に全身を覆っている。
(この子、強いな)
天月天はぼんやりとそんな事を考えてから、ちらと彼女の眼を見た。
「……」
言葉にするなら、凄い眼をしていた。
暗く、汚く、おぞましい、黒い光を湛えた、色の薄い赤い瞳。
二十一年しか生きていない自分より年下に見える女の子がする瞳の色じゃないと彼は思い、
「酷い」
と、言葉が口をついて零れ出た直後。
運命を感じた。
この子とは一緒に居なければならない、と。
直感と言って詰まらなく、一目惚れと言って下らない、瞬間の思い込み。
だとしても、天月天には正に運命だった。
こんな状況で、それでも彼は、彼女に心を奪われていたのだから。
しかし、天月天のそんな心の動きなど、彼女には関係が無い。
彼女は眉を動かすことも目を細める事も無く下顎の吹き飛んだ死体に一瞥をくれると、彼に返答する様に口を動かした。
「酷い……そんな言葉を吐くっていう事は、あなた一般人?」
「ってことは、君はプロか」
彼女は天月天の言葉を聞くとほんの僅か口を閉ざして、
「そう。なら仕方ない」
一瞬の迷いも、僅かな葛藤も、閃くような躊躇いもなく、彼女の指はエレベータのボタンを押すより簡単に、トリガーに掛かっていた。
撃鉄が銃弾の雷管を叩き、発生した火花が火薬に急速な燃焼を促して、強烈な爆圧によって打ち出される弾丸。打ち出されたホローポイント弾は銃身に刻まれたライフリングによって旋回運動し、天月天に着弾すると同時に弾丸の先端がまるで花開くように変形して、その肉体を抉る様に破壊する。撃たれた彼は微かな呻き声を上げて汚い地面に倒れ、腹に空いた穴から赤黒い血液を流し、そのまま絶命していく。一般人の後処理は面倒だが見られてしまったのならしょうがない――なんて考えながら、きっと後片付けをするのだろう。
と、彼女は思っていた。
彼が手に持っていた携帯端末から放たれた、強烈なフラッシュで眼が眩むまでは。
カシャ、というあまりにも間の抜けた電子音と同時に激しく閃光した端末のライト。
その瞬間に天月天は脇腹につきつけられていた銃を上から無造作につかみ、そのままの勢いで外側へ力任せに捻った。体勢を崩した彼女の後ろから覆い被さる様に組み伏せて、女性特有の小さい背中を押しつぶす様に立てた膝を背骨に乗せる。
「ッ、ガバァア!」
如何しようもなく汚い呻きが女の子の口から飛び出した。
その間に左腕を踏みつけ、右腕を背中へと捻りあげる天月天は、女の子の手には似合っていない大きな銃を取り上げて、すかさず取り上げた銃を無理やり女の子の口内へと押し込んだ。喉の奥まで銃身を突き込まれた彼女は生理的な反射で吐きだそうとするが、喉の動きだけで突き込まれ続けている銃を吐きだせる事はない。仕舞いには胃の内容物を逆流させ、体全体をビクンッと痙攣させる。
女の子にする行為ではないよなと良心ではなく常識で考える天月天は、けれど大きな体で押し潰している女の子の上から退く事はなく、銃身も小さい口に突っ込んだまま口を開いた。
「女の子にするにしては酷い事をしている自覚はある。でも、きっと君は、俺が拘束を解いたとしても素直に帰ったり、帰してくれたりはしないと思うし、例え君が何もしないと言っても、この殺人現場を見る限りで俺がその言葉を信じる事は出来ない。――だから、選んでほしい」
天月天は小さな口の中を蹂躙するように銃身を動かしながら、連続で嘔吐くせいで眼球を反転させて鼻水を垂らす女の子に尋ねた。
とても正常な人間が下す判断ではない二択を、さも当然のように選択させるために。
「このまま俺の安全の為に死ぬか」
あるいは。
「俺と結婚して嫁になるか」、と。
天月天は、さあ選べ! とでも言うように嘔吐き過ぎて汚物に塗れた女の子の口から、銃身を引き抜いた。銃身を引き抜かれてケホエホとむせ返る彼女は、しばらくして自分を抑え込んでいる天月天を横目で睨むと、迫られるあまりに狂った選択肢に鋭く眉を寄せて呟くように、こう言うのだった――。
♀+♂
質問をしよう。
簡単な質問だ。
人間の顔半分を鈍器の様な拳銃で吹き飛ばした少女と、その殺人現場を目撃した男。
どちらが ―― だろうか。
これなら10対0で前者だろう。
けれどその男が、人間の顔半分を吹き飛ばした少女からつきつけられる拳銃を、何の躊躇いもなく組み伏せた上で奪い取り、殺人者である少女の口内へとその銃口を突き込み嘔吐かせた挙句、「死ぬか、結婚か」という奇妙な選択を迫ったとしたら。
さて、どちらが ―― だろうか。
当然の事として、怒りもなく人を殺して、さらにそれを見た男に平気で銃をつきつける事が出来る少女は ―― だろう。一般的に殺人とは怒りの末の手段として用いられる処世術であり、怒りもなく人を殺せる人間を正常だと位置づける事は出来ないからだ。そもそも、人を殺すという行為自体、殺人を目撃した男が暮らす国では ―― だと考えられているのだから、そんな理由づけをしなくても ―― であることは間違いがない。
だが、その ―― を目撃しておいてもなお、その状況に物怖じするどころか死体に対して『勿体ない』と考える事が出来、つきつけられた銃に怯むどころか機転を利かせて反撃し、少女を何の罪悪感もなく組み伏せて、さらには銃口を口の中に押し込むことをやめず、逆に奇妙な選択肢を提示することが出来るこの男は普通の一般人かと問われたとき、「一般人だ」と答える常識人が何人いるだろうか?
その事を念頭に置いて考えてみれば、1K六畳に一人で暮らす天月天という二十一歳のこの男に出る質問の答えは、本当に簡単な物だろう。
そうこれは難しい問題ではなく――簡単な質問だ。
♀+♂
「――この異常者が」
♀+♂
残り時間 十九時間二十三分
その者は上空一〇〇〇〇メートルを歩いていました。
地中にその者の落とし児たる使者を這わせながら、かつこつと足音をかつこつ鳴らします。
次回 『 部屋と弁当 』