はじまりの詩
その日は冬の寒さを忘れるほど気温が上がった日だった。
時間は午前8時半。間違いなく遅刻である。しかし、この小学5年生の男子は慌てなかった。というより気にしてないといったところである。
彼は何事にもゆっくりと行動するのである。朝は家族の誰よりも遅く起き、家から学校に登校するのも他の兄妹よりも遅く、給食は誰よりも遅く食べる。
とはいえ、彼も遅刻はしてはいけないことぐらいわかっている。ただ、必死さと罪悪感がないのである。
そんなだからか一年の三分の二は遅刻している。たまに遅刻せずにホームルームまでに登校すると同じクラスの子から不吉だと言われる。本人は気にしてないが、他の生徒たちはよく噂している。
のんびりと登校し、学校に着いたのは午前8時50分だった。校門には誰もいない。40分までは教師たちが校門の外側で登校してくる生徒たちに声かけをしている。さすがに授業が始まっている時間には教師はみんな引き上げて、各々の教室に行っている。また、この時間に遅刻してくるのは彼くらいしかいない。教室の窓から彼を見かけた生徒はいつもの風景だなぁと思っている。
焦らずゆっくりと階段を登り、自分の教室である5年2組に入った。前から。
「おはよう」
担任の棚橋先生は表情を変えずにいつもの仏頂面で彼を迎えた。
今日の1時間目は国語だったかとこの遅刻してきた男子生徒は思った。
教科書を忘れた気がするなぁと考えつつ、挨拶されたらちゃんと返さないとと思った彼はやる気のなさそうな顔で挨拶を返した。
「おはようございます。」
「うむ。さっさと自分の席に座れ。」
「はい。」
いつもの光景なので誰もが無反応で棚橋先生も何もなかったように授業を続けた。
自分の席に着席すると隣の机の女子が眉間にしわを寄せていた。この女子は彼が嫌いなようで、よく同じグループの女子に早く席替えしたいと愚痴をこぼしている。どうしようもない屑だとも言っていた。直接は言われたことはないが、彼も彼女が自分のことが嫌いなのはだいたい理解しており、触らぬ神に祟りなしということで、一切話しかけない。
一応真面目に授業を聞き、給食の揚げパンに舌鼓を打ち、きっちり掃除した後、みんな楽しみの昼休みである。
休み時間を一緒に過ごす友人のいない彼はよく校内を散歩する。可哀想な青春に思えるが、彼はあまり気にしてなかった。それが当たり前だったからである。
いつもは廊下をぶらぶらするだけだった彼はこの日何を思ったのか、図書室に行った。彼は本は読まないタイプの人間だった。この小学校では読書週間の時期に朝、読書時間を設けていたが、彼はその時間は歩道を歩いている。そんな彼がどんな本があるか見ようと思ったのである。
3階の一番東の奥に図書室はあった。入ってみると利用者はいなかった。ただ、カウンターに女子が一人座っていた。見たことないので、多分、違う学年の女子だろう。本は奥と両サイドにの本棚にところせましと置かれていた。入学したての頃の校内案内で来た時以来だった。本棚を見て回ったが、特別面白そうな本はなかった。そろそろ出ようかなと思った時、入り口近くの本棚に『日本史』という漫画を見つけた。漫画なら家にもあるなぁと思い、ちょっと読んでみた。
おもしろい。
純粋にそう思った。理由を問われてもわからない。ただ、直感的におもしろいと思ったのである。いつの時代の話かはわからなかったが、応仁の乱という京都での戦いの話しだった。権力闘争を簡潔に分かりやすくまとめられていた。他の話は当時の倭寇や勘合貿易についても鮮やかに描かれていた。昼休みが終わるまで読み耽ってしまった。
教室に戻った彼は再び一応真面目に午後の授業を受けた。
次の日も彼は昼休みに図書室に来た。昨日の続きを読みたかったからである。今日は別の時代の巻を読んだ。日露戦争の話しだった。陸の戦いは辛勝で日本海海戦では戦艦三笠を旗艦に勝利した。戦艦の描写がかっこよく思えた。東郷平八郎の渋いイメージが出来上がった。その日も昼休みが終わるまで読み耽っていた。
数日もすると図書室にあった『日本史』は全て読み終わってしまった。特に日本の戦国時代を気に入った。もっと色々と読みたいと思った彼はどうしようかと考えた。懐事情は寂しくお金はないので本屋で買ってくることはできない。それに部屋に本を置くスペースがあまりない。そこで思い付いた、いや、思い出した。市立の図書館に行けばよい。あそこならたくさんの本が無料で読める。場所は低学年の時に学校の行事で見に行ったことがあり、だいたいの場所は覚えている。
週末、早速、冬の寒さが身に染みる日に駅から少し離れたところにある図書館に来た。似たようなビルがいくつもあり、少し迷った。記憶を頼りに探しなんとか図書館が入っているビルに着いた。小綺麗な外観で10階まであるようだ。中に入ると誰の絵かわからない絵画をいくつか飾ってあった。近づいてみるとタイトルと作者と簡単な解説が書いてあるパネルがあった。どうやら素人のサークルみたいな集まりの作品のようだった。
図書館は10階のうち、2階にあるようだ。階段で2階に行くとトイレと図書館の入り口があった。先にトイレを済ました彼は図書館に入った。とりあえず、借り方を聞こうと思い、カウンターに行き、話しを聞いた。言われたとおり、必要書類に記入して申請し、会員カードをもらった。
早速、歴史の棚を見た。時代や地域別に置かれていた。源頼朝や北畠親房などの人物に関するものや世界の帝国の専門書があった。彼は特に日本の戦国時代がお気に入りだった。日本史の棚の戦国時代のコーナーを探した。探している間、色々な歴史の本をみかけ、わくわくした。いつか、読破したいものである。ああ、歴史が好きなんだなぁと思った。
戦国時代のコーナーを見つけると、どの本を借りようか品定めを始めた。とりあえず、武田信玄か毛利元就とかを探してみた。あえて、織田信長や徳川家康、豊臣秀吉あたりは借りないことにした。主役より脇役が好きなのである。歴史に主役とか脇役とかはないと思うが、当時の彼にはまだ歴史の見方というのがなかったのである。村上海賊や社会史の本など魅力的な本が並ぶ中、毛利元就の伝記を見つけた。毛利元就といえば小早川と吉川を結婚政策で乗っ取り、嘘の情報を流して、当時中国地方で最大の勢力となっていた陶氏を厳島に誘き寄せ、撃破した名将である。『日本史』にも描かれていた。
本を借りて帰ってきた彼はリビングで読んだ。途中で飽きるかなと思ったが、あまり小難しい表現はなく、小学生にも読みやすい代物だった。
数日もすると毛利元就の本は読み終わってしまった。図書館に行き、返却して今度は新たに戦国時代の習慣に関する本を借りた。それも夢中になって読んだ。
知識が溜まると誰かに話したくなった。それはもううずうずと。
しかし、家にも学校の生徒にも好きそうな人はいなかった。頼るつてのない彼はとりあえず担任に給食の後の掃除中に歴史のことを話してみた。
「先生は歴史が好きですか?」
「まぁ、小学校の教師だから好きというよりも最低限の知識はあるよ。」
「じゃあ、毛利元就は知ってますか?」
「名前は知っているが、詳しくは知らないなぁ。」
「そうですか。」
やっぱり、歴史が好きな人は少ないかと彼は思った。歴史の本を読み始めた彼には毛利元就は最早マイナーな戦国大名ではなく、戦国時代の中で代表的な存在である。ただ、毛利元就は天下を取ることよりも自家の存続を優先したため、あまり日本史の1ページを刻んだとは言い難く、学校では習わない。だから、歴史に関心のない教師は知らなくて当然であろう。
突然、担任の棚橋先生はニコッとした。
「歴史の話しがしたいなら九条先生に話してみたら?あの人郷土史家だからこの辺の歴史にも詳しいぞ。」
「本当ですか?」
棚橋先生はびっくりした。いつもだるそうな彼が目を輝かせていたからである。とても微笑ましく思えてきた。
「九条先生はたぶん職員室にいらっしゃるだろうから、掃除を終わらしてさっさと行ってきなさい。」
「はい!」
テンションが上がっている彼は急いで教室の掃除を終わらせた。
教室を出て階段を降りながら、こう思った。
もっと知りたいもっと理解したい。難しい専門書はまだ読めないけど、彼はいつかは読み漁りたいと思っている。『日本史』という漫画を読み、自分の見る世界が変わった。自分の生きる道が見え始めた。
彼は人生が動き出し始めたと確信めいたこころを感じた。
そう、彼の人生がはじまるのである。




