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ある猫の怪  作者: 香月日向
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前編

お姉さんと猫耳少女の不思議な話です。

 たしか大正の終わりか昭和の始めだったと思う。

 

 ある田舎に大きなお屋敷があって、そこに大変美しい娘が住んでいた。

 

 娘は、一匹のメスのキジトラ猫をたいそう可愛がっていた。娘がまだ幼かった頃に、お屋敷の庭で親猫とはぐれて鳴いていたのを見つけて以来、娘はその猫を妹のように大事にしてきたのだった。

 

 そんな娘が、この度嫁に行くこととなった。隣村の大地主の息子で、陸軍の士官になった旦那が、用事で近くに来たときに見初めたという。


 「猫や。あたし、嫁に行くこととなったよ。陸軍の士官さんだってさ。どんなひとなんだろうね?」


 猫は娘の膝の上で丸くなり、ごろごろ喉を鳴らすばかりである。


 「寂しくなるね。あんたを連れていけたら、どんなにいいんだろうねえ。」


 人間側の都合で、猫はこの屋敷に置いていかなくては行けなかった。

 娘は姉妹同然に思ってきた猫と離れるのが、どうしようもなく辛かった。

 

 嫁入りの日。娘は猫に、大好物の鮒を焼いたのと白い米を好きなだけ食べさせた。猫は顔に米粒を一杯付けながら、あっという間に娘がくれる最後のご飯を食べ終えてしまった。食べ終わったあとも、猫は名残惜しそうにご飯の入っていた欠けた茶碗を舐めていた。


 「あんた……もうまんまは全部食べたでしょうが。頼んだって駄目だよ。もう……おしまいよ。……あたしがあんたにご飯をあげるのは……」


 娘は泣いた。猫は慰めるように、娘の頬を舐めていた。


 さて、娘が陸軍旦那の嫁になった夜のこと。

 娘は母屋ではなく、家の北東にある離れで寝るように姑に言われた。なんでも、隣村の風習で、結婚した男女は母屋で初夜を過ごしてはならないという。


 離れは寒かった。娘は、冷たくなった足をもぞもぞしながら、今日初めて会った夫が来るのを待った。


 ところが、夫の陸軍旦那が離れを訪れる事はなかった。どうやら、久々に帰った故郷の友人と飲み明かしていたようだ。真っ赤になるまで酒を飲み、いい気持ちになって帰ってきたのは朝だった。


 結論から言えば、陸軍旦那は娘に全く興味を示さなかった。仕事が忙しいのを理由にほとんど帰らない。帰ったら帰ったで、ふんぞり返って酒ばかり求める。


 「わしは陸軍の士官さまじゃ。国家を護るエリートさまじゃぞ!」


 実家に帰った陸軍旦那は、まさに王様だった。


 結婚生活は、大分冷たいものになった。娘は、ほとんど帰らない、自分を本気で愛してるかも定かでない陸軍旦那のために、あれやこれや家事をする日々を過ごすこととなった。


 「夫には夫の務め、嫁には嫁の務めがあるのですよ。この家の嫁になった以上、あんたは嫁の務めを果たさなくてはいけません。」


 例え、旦那に愛されてなくても。言外に姑は付け足した。


 「ねえ。旦那様。あんたは私を見初めたんじゃなかったかね?あんたにとって私は何?家事をして、ただあんたが必要になったときにあんたの家の後継ぎを産むだけの存在かえ?」


 自分の隣の冷たい布団に問いかけた。熱い液体が眼から滴った。


 そんなある晩。夜中に、娘の寝ている部屋の雨戸をどしどし叩く音が聞こえた。何事かと思い娘が起きると、どうやら外に誰かいるらしい。


 「誰かね?こんな夜中に戸を叩くのは?」

 

 呼び掛けてからふと、強盗だったらどうしようと思って怖くなった。居直り強盗となって襲いかかってきたら……。娘はすぐに逃げられるよう身構えた。


 脈が速くなるのが分かった。本当は今すぐ声を上げて助けを求めるべきだろうが、娘は硬直したままであった。


 もっとも、今この家には娘と姑と下女しかいない。陸軍旦那は、もちろん留守だ。


 「誰かね?強盗なら見逃してください!」


 娘の声は震えていた。


 ずずっと、雨戸が動いた。娘はぎゅっと目をつむった。


 しかし、強盗は押し入って来なかった。それどころか、子どものような高い声が娘に話しかけてきた。


 「ごめんなさい。おどかすつもりはなかったのですが……」


 可愛い声に、娘は困惑した。なぜこんな夜中に子どもが訪ねてくるのか。


 「あ……あの~お姉さん……」


 目をそっと目を開けて、声のする方を見やる。人の顔が覗く程度に開いた雨戸から直線に差し込む月明かりをたどると、そこには十三、四歳の女の子がいた。


 「あ……」


 「えっと……その……」


 「……こ……今晩は?」


 「こ……こ、今晩は……」


 どうするべきか。まず訪ねてきた理由を聞くか。それとも誰か呼んでくるか。


 「えっと……その……」


 「あ、私は……この近くに住んでいるタマと申します。お姉さんがなんだか寂しそうにしてたので……一緒に遊びに行きませんか~……なんて……てへへ」


 タマと名乗った女の子は恥ずかしそうにはにかむ。


 「ちょっとまって……話が見えてこない……あたしが寂しそうしてるって……あなたはあたしのことずっと見てたってこと?」


 「まぁ……そういうことに……嫌だったですか?」


 「いや、嫌だとかそういうんじゃなくて……何て言うんだろ、ずっと見ててくれる人がいたんだなって……」


 陸軍旦那に嫁いでから、知らない家で、誰にも理解されずに、愛されずに過ごしていた気がした。


 朝起きて、下女や姑と共に家事を忙しくこなし、寝る。それだけの毎日が変わろうとしている。これから、ちょっぴり素敵なことが起こるような、そんな予感がした。


 「あの……お姉さん?」


 「タマちゃん、あたしのこと、ここから連れ出してくれるの?」


 この退屈で寂しい生活から、解放してくれるの?


 月光を背負い佇む少女に、娘は問うた。


 「少しお散歩しに行く程度……ですけどね。」


 娘は雨戸を全部開けて、どてらを羽織って月光の下に出た。


 初めて、タマの体全体が目に入った。思っていたよりもずっと小柄な、可愛らしい少女だ。癖毛なのか、両耳の上辺りからそれぞれ一束づつ髪がはねて、もう一対の耳のようになっている。


 「さあ、お姉さん!行きましょう!二人だけの、夜の秘密のお散歩へ。」


 夜の冷たい風が、優しく体を撫でていく。少し寒いけど、心は暖かい。秘密のお散歩だなんて、タマちゃんはなんて心踊ることを言ってくれるんだろう。

 娘の心は毬のようにてんてんとんとんと跳ねた。

 

 白い月明かりの中を、タマと娘は歩いた。


 「実は、この近くに住んでいるとは言いましたが、まだ引っ越してきたばかりなんですよね。」


 タマがまたはにかみながら言う。


 「じゃあ、この辺に詳しいって訳でもないんだ。」


 私と同じで。娘は胸中で付け足した。


 「はい。ですから、今日のお散歩は、目的地とか全然決めてないんです。ただ、ぶらんぶら~んと、その辺を歩くだけです。」


 目的地なんて、なくたっていい。ただこうして、一時でも退屈な日常から逃れることができたら、それでいい。


 「タマちゃん。引っ越す前はどこにおったの?」


 「隣村です。ちょうど、向こうのお山を越えた辺りの。」


 タマが示す方角は、娘の故郷の村がある方と一緒だった。


 「へぇ。じゃああたしと一緒だね。あたしもついこの間向こうの村から嫁いできたんだよ。」


 タマちゃんも、私も、まだこっちに来たばかり。それも同じ村から。知らない土地で、同郷の者に出会えたことが、娘は嬉しくてたまらなかった。


 それから毎晩、娘はタマと秘密のお散歩に出掛けるようになった。(後編に続く)

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