酒ガ招キ、火ガ送ル
五十歳を数年過ぎて、男は久しぶりに故郷の地を踏んだ。
遠く離れた大阪の地への転勤の辞令を受けたのが、二十四歳の秋。
それから双六の駒のように転勤を続けて、やっとゴールにたどり着いたかのような今度の転勤だった。
十年以上前に父親が他界し、母も痴呆を患って施設暮らし。嫁に行った姉とも疎遠になった彼には、故郷といっても、もう帰る家も無かったが。
それでも。
やっと、の感は堪えなかった。
学生時代、”西のターミナル”と、呼び慣わしていた駅に降り立つ。
プラットホームから見渡す駅前の様子もすっかり変わり果てて、いかに自分が故郷に不義理をしていたかを思い知らされる。が、一方で”新天地”へ降り立ったような錯覚を覚えて、希望のようなものも沸いてくる。年甲斐も無いことと、自分でも判ってはいるが。
思えば、彼の人生は決して順調とはいえなかった。いや、最初の転勤までは”勝ち組”だったはず。それなりに恵まれた家に生まれ育ち、好景気と父親のコネとで就職先も選び放題。その中で一番条件のいい会社に入った。上司の覚えもめでたく、出世街道をひた走るものだと自分も周りも思っていた。
大阪本社への転勤は、出世への第一歩だった。
三年ほど武者修行をして、こっちに戻った時には係長。それが、”通常”のパターンだった。
なのに。
大阪での二年目。つまらない同僚のミスを押し付けられたのが始まりだった。後は坂を転げ落ちるように、バブルの恩恵は彼を避け、その後の不景気の波は彼を直撃した。
そこへ持ってきて、婚約者の裏切りまで重なった。いや、逆か。彼女の裏切りが全ての発端か。
まだ学生だった彼女と過ごしたこの街で、再起をかけるのも悪くは無い。
今に見ていろ。今度こそ、俺は……。
気づくと彼と同じ電車を降りた客は、すでに改札へと向かったらしく。ホームには彼を含めた、十人足らずが、思い思いに次の電車を待っている。
駅のクリーンスタッフが、邪魔そうに彼の足元を丸く残して箒を使う。その箒をまたぎこして、彼は改札へつながる下りのエスカレーターへ向かう。
まずは部屋探し。
月末には引っ越しをして。年度が変われば、新しい仕事が俺を待っている。
数カ月後、夏の盛り。
お盆で帰省していた大学時代の同級生と、電車で出会ったのは夕方も間近の頃だった。
声をかけるまで彼に気づかなかった同級生に、少しばかり腹を立てながらも、男は誘われるまま飲みにきた。
彼の会社も盆休みに入っている。が、順調に出世した同期のやつらは、『忙しい』なんて、どこかうれしそうな顔で言いながら、休日出勤をしてたりする。『お前とは、違うんだよ』と、やつらの目が言っている気がして、腐っていたところへの”お誘い”。
気乗りのしない顔を作りながらも、彼はその誘いにのった。
「こんなはずじゃなかった」
何度目かになる繰り言をこぼす男を、同級生がうっとおしそうに眺める。その視線が気にならないくらい、この一時間に飲んだビールの量は彼の脳を緩やかにふやかしていた。
この地に転勤してきて最初に男が任されたのは、簡単な仕事だった。
補佐をする女子社員がもう少し要領がよくって、上司がもう少し仕事のできるやつなら。楽勝で片付いたはずの仕事だった。
なのに。
誰も彼もが男の足を引っ張った。
頼んだはずの資料は『そんな連絡、聞いてません』の一言で間に合わない。
昼休み中の彼宛にかかってきていたらしい電話のメモは、資料の下から出てくる。
『補佐を別の者に』と、上司に掛け合っても、のらりくらりとかわされ続けて。
気が付くと……後から、割り込んできたライバル社に契約を取られ。
そんなことが、三回も繰り返されたころ。彼には”無能者”のレッテルが貼られていた。
「いつも、このパターンだ。どこに転勤になっても。どいつもこいつも。俺を虚仮にしやがって」
大阪時代に覚えた冷酒を、口に運ぶ。
冷感と、後から追いかけてくるような熱感とが咽喉を滑り落ちる。一拍遅れて、脳の芯がクラリとゆれる。
「なんだ、これ」
チロリに入った酒を睨む。
ビールに飽きた彼が頼んだのは、冷酒を飲むことを彼に教えたかつての上司が好んで飲んでいた”神戸の酒”のはず、なのに。
「まっずい酒だな」
「そうなのか? 灘の酒だろ?」
男の意識が愚痴から離れたことに、あからさまにほっとした顔を見せた同級生は、
「どれ、飲ませろ」
と、ぐい飲みに手を伸ばす。
その手を軽く睨んでおいて、男は酒のメニューに手を伸ばした。
クーっと、向かいの席で同級生がうなり声を上げる。
「うまいじゃないか。やっぱり、灘の酒は違うな」
「どこが」
彼に冷酒の飲み方を教えた上司が、『日本酒は鼻に抜ける香りが、云々』と、薀蓄を垂れるのを、冷めた目で見ていた男だったが。かの地を離れて飲めば分かった。
保存の具合だろうか。確かに、香りが違う。
「やっぱり、現地で飲まないと。これのうまさは分からん」
「そうか? 俺は十分にうまい」
これくらいで『うまい』と言っている同級生を哀れに思う。
まぁ、仕方ないか。中規模の地方都市の、ちっぽけな居酒屋なんだから。めぼしい酒も見当たらないし。
自分にそう言い聞かせながらメニューをテーブルに戻した男は、同じ酒をもう一度注文した。
「太刀魚の刺身でもあったら、また違うんだけどな。その辺の安酒でも、もう」
思い出しただけで、ため息が出る。
何年食ってないだろう。太刀魚の刺身も、炙り鰆も。
「それは、瀬戸内だからできる食い方だろ? ここでは無理な話」
同級生は、呆れ混じりに笑いながら勝手にお代わりを注ぐ。
「お互い、大学時代はビールを飲んでたのにな。あの頃は、ポン酒飲むようになるとは思わなかったよな」
そう言って、酒を一息に飲み干した同級生の言葉に
記憶が、よみがえる。
かつての婚約者と出会ったのは、大学をまたいだ合同サークルの新歓コンパだった。
彼が通っていた経済大学に隣接する総合大学の薬学部の一年生。それが彼女だった。
微妙に栗色がかったウェーブヘアーに黒目がちの丸い目。どこか母親がかわいがっていたポメラニアンに似た子だった。
当時三年生だった彼は、この同級生を含む数人の悪友と新入生の品定めをしながら飲んでいた。
「俺、あのポメラニアン」
おおー。行け行け。落とせ落とせ。
そんな仲間の声に背中を押されるように、彼女に近づいた。
「何、飲んでるの?」
「あ、ビールを」
まっすぐに見てくる丸い目が、グラスを握る小ぶりな手が、彼の心を揺さぶる。
「もっと、おいしいお酒、飲んでみない?」
「おいしいお酒、ですか?」
「そう、これなんか飲みやすくって」
内心で舌なめずりをしながら勧めた、カルーアミルク。コーヒー牛乳のような飲み口に似合わぬ、レディーキラー。仲間内では、女の子を酔わせて持ち帰る時の必殺技と言われていた。
「試しに、飲んでみない? 甘くっておいしいよ」
「甘いお酒、ですか」
彼の言葉をオウム返しに返す、ポメラニアン。これは……出来上がる寸前か? 思考能力働いてなさそうだ。
そんな彼の期待を打ち砕く答えが返ってきた。
「私、ビールが好きなんです。この苦味が」
「はぁ?」
「大人の味、でしょ? それに、この咽喉を通った後の感じがたまらなくって」
ポメラニアンのような小さな舌でグラスのふちを舐める。
落ちたのは、
彼自身だった。
「そういや、嫁さん。元気にしてるのか?」
同級生の言葉に、男は我に返った。
「俺、独りだから。そんなやつ、居ない」
言いながら、屈辱感が咽喉を絞める。
アルコールで消毒するように、ぐい飲みの酒を流し込む。頭の芯を揺らす酔いが、咽喉の締め付けも解く。
「あ、悪い。……って。おまえバツついたの?」
いつの間にか二つに増えたチロリから、同級生が酒を互いのぐい飲みに注ぐ。
「いや。結婚自体してない」
「ええー!!」
「そんなに、驚くか?」
「だって、おまえ。婚約してたんだろ?」
出てきたかつての婚約者の名前に、そっと目を伏せるように、彼はぐい飲みの中でゆれる酒を眺める。
思えば。
この……日本酒のような娘だった。
理系女子の典型のような堅物で、講義をサボってデートするなんて考えられないと言っていた彼女は、当時男の周囲にいた女子とは一線を画す、清酒の透明感を思わせる清冽な雰囲気をまとっていた。
それでいて。男の方が年上なことを忘れるくらい、ふわりと包むようなぬくもりも持ち合わせていた。まるで今、彼の脳を包み込んでいる酔いのような。
彼女を思い出させる酒を咽喉に流し込む。
彼女が時折見せた、何かを咎める目のような辛味が咽喉を焼く。
「寝取られたんだよ。アイツの同僚って男に」
ちらりと見た同級生の、痛そうな目が酒に麻痺した心に気持ちいい。
「俺が戻るまで、って就職させたのがそもそもの間違いだった」
『大学を中退したくない』『内定をもらっているから、働きたい』なんて我侭を、どうしてあの時、許してしまったのか。
婚約なんてあいまいな関係で、どうしてあの時、満足してしまったのか。
あそこが全ての分岐点だったというのに。
「偶然、男連れで旅行しているのを見ちまって。事情を聞くために、わざわざ忙しい仕事休んでこっちに帰ってきてみれば、男の部屋に泊まっててさ」
あの日、いっそ彼女を殺して……とまで思いつめた自分は、間違ってない。あんな経験をすれば、誰もが同じ判断をするだろう。
「翌朝、道であった俺を、野良犬を見るような顔で蹴り飛ばしやがった」
「蹴りと……えぇ!? マジで?」
「ああ。しばらく呼吸ができないくらいの力でな」
横で見ていた間男も、驚いた顔をしてた。そりゃそうだろ。ポメラニアンが、いきなりドーベルマンになったら誰だって驚く。
「それっきり。まともに女と付き合う気も失せてさ。適当に欲望を解消しながらこの歳だよ」
まぁ、左遷としか言いようのない転勤を繰り返している”無能者”だし?
自嘲の笑みが、馬鹿笑いに変わる。
「ションベン、行って来る」
「……あ、ああ」
急に催した尿意に、席を立つ。若者のコンパらしいはしゃぎ声の聞こえる個室の横を通り抜けて、トイレへと向かう。
「おっと、失礼」
内側からドアが開き、トイレから出てきた青年。ぶつかりそうになって謝る青年を、男は睨む。
青年は再度軽く頭を下げて、穏やかに微笑みながらドアを押さえて男を通す。
用を足して、ファスナーを上げた時、チカっと脳の裏に閃くように思い出した顔があった。
トイレのドアを乱暴に開ける。
思い出した顔はそんなところにいるはずもなく、足音を立てながら席に戻る。
さっきの、トイレから出てきた男。
間違いない。婚約者を寝取った間男だ。
思い出した顔にムカムカしながら、さらに杯を重ねる。
彼らのテーブルの横を一組のカップルが通る。甘えたような女の声に顔を上げると、さっきトイレで出会った間男が二十代と思しき女性と腕を組んでいた。
結局。彼女は捨てられたのか。
歳若い女性と天秤にかけられただろう、かつての婚約者。五十歳を迎える彼女の恨み節を思うと、これほど”因果応報”という言葉にふさわしい事も無いように思えて、胸がすく。
男は、絡み合うように出て行くカップルの背中に、ひっそりと乾杯する。
『そろそろ帰らないと』という、同級生の言葉に店を出る。
午後九時を過ぎようかというのに、むっとした熱気が体を包む。二軒向こうのコンビニの店頭には”現在の気温”などと、表示が出ている。
二十八度、な。見ただけで、暑くなる様なもの、わざわざ出しやがって。
「熱帯夜、だな」
夜の気温が二十五度を超えると、そう言いたくなるのは……なんだろう。昭和生まれの癖のようなものか。
「そういえば、熱帯夜って言葉。昔ほど聞かなくなったよな」
タバコに火をつけながら同級生が言う。
いまどき、タバコ吸うか。歩きタバコが罰金対象になる街もあるのにな。
呆れ半分に男は、顔の前に流れてきた煙を、ふっと息で追い払いながら
「毎日が、熱帯夜だからな」
「俺たちが若かった頃は、『十日連続の熱帯夜で』って、ニュースになっていたのにな」
くわえタバコで、同級生が笑う。
熱帯夜が、ニュースになっていたのは、いつごろまでだっただろう。
その次に現れた”真夏日”も超えて。”猛暑日”がニュースになる最近の日本は、どうかしている。
また、近いうちに、と、永久にこないような約束を交わして。男は一人、駅へと向かった。
大きな交差点で、人の波に巻き込まれる。
このヒマ人ども。熱帯夜に何を浮かれてこんなに出歩いてるんだ。
心の中で毒づく男に、一人の女性がぶつかった。
「どーこに、目をつけてんだぁ。あぁ? 寝ながら歩いてるのかよ」
罵りながら、肩のあたりにある頭を睨みつける。
「すみません」
彼を軽く見上げるように謝ってきた女性。
その日、何度となく彼の心を刺したかつての婚約者がそこにいた。記憶にあるより、少しだけ歳を重ねて。
クラリと、頭の芯が揺れる。
頭蓋骨内に溜まったような酒が、タプンと音を立てた気がした。
名前を呼ぼうとした。
『許してやるから、戻って来い』と、夢の中で何度も呼んだ名前を。
けれど。
初対面の相手を見るような彼女の瞳に、声が咽喉で凍りついた。
「どうした?」
低いハスキーな声に、彼女が背後を振りかえる。
彼女を守るかのように、大きな男性が眠った子供を肩に抱いて立っていた。
「少し、ぶつかってしまって」
すみませんでした。と、もう一度謝って、彼女が背中を向ける。
呆然と見送るしかできなかった男はノロノロと、駅へと向かった。
改札で、駅員が叫んでいる。今夜は、近所で大掛かりな花火大会があり、見物客で混雑しているという。
彼女は、一家で花火見物に来たってところか。
駅は入場制限がとられており、改札前で男はしばらく待たされた。
背後で甲高い女の声がする。
最近ヒットチャートを賑わせている地元のロックバンドのメンバーが、家族連れで花火を見に来ていたとかいないとか。そのバンドのメンバーの一人は、男と同じ大学の卒業生だとか、どうでもいい情報が耳から流れ込んでくる。
「そうそう。最近ビールの広告してるよね」
そんな言葉に、ああ、あのポスターな。と、男の脳裏にも、さっき居酒屋で見かけた話題のポスターが浮かぶ。
あれ?
彼女の後ろにいた夫らしき男性。あれは、多分。ポスターの真ん中にいたやつ。
男から婚約者を奪った間男は、若い女性とイチャついて。
かつての婚約者は、芸能人の妻に収まって。
割りを食ったのは
男、ただ一人。
何度となく口にした人生を罵る言葉が心に渦巻く。
ギュウギュウに詰め込まれた電車の中で、押し付けられたドアの窓ガラスに映った中年男の姿を見る。酔いが回った頭で、『俺も歳をとったな』と、他人事のように考える。
一緒に飲んだ同級生も、そういえば生え際が後退していた。
冷たい手が首筋を撫でた
気がした。
今夜見かけた、懐かしくもない二人。
間男は、二十数年前に見かけた時から歳を取っていなかった。連れの女性と同じ年と言われれば、頷いてしまいそうなほど。
婚約者は、少し歳を取ったようだったが。どう見ても三十代半ば。
何だ? あいつら。
男の部屋から出てきた彼女の頭上に振り下ろしたナイフ。
握った柄の感触は、今も手に残る。
あの日、自分は本当に彼女に蹴り飛ばされたのか?
実は……彼女と間男をその手にかけたんじゃないのか?
今夜見た あの二人は
自分にしか見えていなかったんじゃないだろうか。
世間は、お盆。
送り火代わりの、今宵の花火。
他の乗客と一緒にプラットホームへと吐き出された男は、酔いだけではない何かに足をもつれさせてベンチに座り込んだ。
『お前は自分に都合のいいように話を作って、それを事実だと思い込む癖がある』
父親が生前、何度も繰り返した小言が、胃の腑を押し上げる。
どこまでが、真実で。
どこからが、妄想か。
当時を知る父は鬼籍に入り、母は恍惚の世界に遊ぶ。
誰に確認することもできない、男が一人。
満員電車の熱気と湿度をはらんだ夜風に顔を火照らせた人々は、青い顔で震えている男を気持ち悪そうに見やりながら通り過ぎていく。
男は知らない。
交差点で出会った女性は、かつての婚約者の歳の離れた妹であることを。
男は知らない。
トイレで出会った青年は、かつての婚約者と間男の夫婦の一粒種であることを。
男は知らない。
男だけが
知らない。
END.




